映画を“浴びる”という言葉で語ることについて

もう昨年の11月になってしまいましたが、ブレッソン監督の「白夜」を観た後に、以下のことを書いていました。

ただ言えるのは、私はそれまでとは違う存在であるということだ。
(略)

ただ違った在り方で世界に身を置いている。

これは映画が浴びるものであることの証である。

この点についてもう少し考えてみようと思っていたものの、生来のものぐさはなかなか治るものでもなく、長い間放置してしまっていました。改めてこのことについて考えようというきっかけとなったのが、先週観に行った試写のあるドキュメンタリー映画なんですが、(その内容については翌月に公開してからということにします)映画を観る前と、観た後での自分自身の違いというものがどうしてもあって、そこをもう一度踏まえてみたいなと思いました。

まず“浴びる”という言葉ですが、映画はよく、「映画を浴びるように観た」なんて使われています。

この場合は「とにかくたくさんの量の作品を観た」という意味合いだけど、見終わった後の感覚的な、自分の存在の違いという点ではなく、量=浴びる、という感じで使われているにすぎなません。僕としてはそうではなくて、この言葉は作品の質に関係して使えると思っているのです。

さて、“浴びる”と言う言葉はどのようなシチュエーションで使われるのかを思うと、「シャワーを浴びる」とか「夕日を浴びる」「喝采を浴びる」などなど。でも、浴びせているものの正体というのはどうにも流動的で明確な輪郭をもった形あるものではしっくりとこない。

国語辞典にはどのように書いているんだろう、と調べると、

 上から注がれた物を身に受ける。
㋐水・湯などを勢いよくからだに受ける。「シャワーを―・びる」「ひと風呂―・びる」「―・びるほど酒を飲む」
㋑細かいものや光などを全体に受ける。「車の舞い上げた土ぼこりを―・びる」「砲火を―・びる」「夕日を―・びる」
 (打撃となるような)ある行為を受ける。「強烈な一発を―・びて倒れる」
 感情的な言葉や質問などを続けざまに受ける。「罵声(ばせい)を―・びる」「喝采(かっさい)を―・びる」「視線を―・びる」
goo 辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/5728/m0u/

 

水とか細かいもの、光、行為や言葉など、やはり固定化した対象物のようなものではないんですよね。

映画も言えばそうした固定化した対象物ではなくって、「時間」「光」「音」の要素が複合的に合わさったものだから。であれば、どのような映画も“浴びる”という言葉が使われてもいいんだけれど、そうとは思えません。なぜか?

それはこの言葉には、身体的な変化が含まれているから、だと思うんです。

“浴びる”という言葉が示すのは、その人に何かが体中に影響を受けたような状態を指しているように思えます。シャワーや風呂、深酒、土ぼこり、夕日、喝采や視線など、体全体で影響を受けてます。行為となる場合も、たぶん1発、2発のパンチでは“浴びる”は使えないでしょう。辞書の例のように、浴びてから倒れる、という、倒れることが含まれてようやく“浴びる”という言葉を使うことができるんじゃないかと思ってます。

なので僕はこの“浴びる”という言葉を映画において使う場合、どのような身体的な変化が起こったかということが、ポイントじゃないかと思います。

で次に映画というものが、このように身体的な変化を起こしうるものであるのか否か、という点ですが、アクション映画とかで手に汗握る、ホラー映画とかで心臓がドキドキ、感動モノで涙がポロポロ…。確かに身体的な変化が、映画によって起こっている場合ではあるけれど、いやいや、これらはどれも“浴びる”という言葉で示すことは出来ない。

ここで例として上げたものは体全体というより、ある一部分のことを言っています。手、心臓、涙…。だけど、体全体が反応しなければそうした反応だってでてこないでしょ、ということも言えますよね。でもだからと言って、やっぱり“浴びる”とは言えない。体全体に関しているが、それだけでは“浴びる”は使えない。

そこで次に考えるのは、“浴びる”ことによってどうなるか、“私はそれまでとは違う存在であるということだ。”という話につながってくると思います。

 

ここでは身体的なことや体全体のことからさらに飛んで、存在が違う、ということを言ってます。僕はここで、観る前と観た後で比較したその結果、自分が変わってしまった、ということです。“浴びる”という描写でも、おおよそこうした前後の違いのようなニュアンスがありますよね。身体的な変化が起こり、その結果、前後の関係で自分が変化したことになっているという。

何かの経験とか知ることを通じて、これを経験しなかった、知らなかった自分にはもう戻れない、って言いたくなるような、そんな感覚の記憶ってだれしもあると思うんですが、それが映画である場合、“浴びる”ということで表現できると思うのです。その映画を“浴びた”んだ、と。

映画を“浴びる”には、映画館という装置が大きく関与しているとも思うのですが、しかし映画を鑑賞する時間を通じて、映画の中の人物や風景や建物、会話や思考方法、価値観などの影響が体に染みこんでゆき、見終わった時に「なんか違う自分になって映画館を後にする」ような感覚って、どんな映画にでも出来るものではないと思うんです。

だから映画を観終わった時に、自分がどうなっているのかを観察する時間が必要だと思います。エンドロールはまさにそうした時間を提供してくれますが、ブツリと切って終わって、映画館を放逐されるように外に出ることもありです(笑)。そのほうが外の景色を眺めつつ、明らかに自分が違っていることが感じられたりもしますから。

一方、とても嫌なのが、見終わった後に映画館の係の人が「ご来場ありがとうございましたー」とかって言うやつ…。そこで一気に自分が映画産業の客であるだけに引き戻されるというか、まぁいいや。

そうした映画をたくさんたくさん見たいものです。