
気づいてしまった「私の声」を拾い上げる
「私の声」に耳を澄ます、とはどういうことでしょうか?
前回の記事「無自覚に「世間」を纏う僕ら」に、僕は「「私の声」に耳を澄ますという、とても精神的に健やかな営み」ということを書きました。
この「私の声」に耳を澄ます、そしてそこにあった「なかったことにされてしまった声」に気づき、拾っていくことは、ともすれば痛みを伴うことかもしれません。だって気づかなければ、そのままで過ごせるんだから。
気づいてしまったら「今後、その気持ちにどう向き合っていけばいいだろう?」と、さらに悩みが増えていくようなことも多いです。
例えば、なんとなく違和感を感じていた職場での上司や同僚(またはクラスメイトなど)に対して、周囲の評価やチームの雰囲気から「なんとなく、私はこんな感じでいればいい」と思ってやり過ごしていたけど、ふと相手のなにかの発言や行動に対して、「あ、私はこの人嫌いなんだ」って気づいてしまったら。それでも日々、同じ職場で顔を合わす相手だから「失礼だ」とか「チームワークを見出しちゃだめだ」とか、その人とは関係を作って続けていく必要があるから自分の気持ちはなかったことにしたい、でももう分かってしまった、そんな気持ちに気づきたくなかった、そんな本音を知りたくなかったと、さらに悩みが増えていく。。
あるいは、家族からかけられる声かけ(あなただけは大丈夫、あなたはしっかりしてるから、とか)に、なんとなくうんざりして、心がいつも重くなるのに、「仲の良い家族」を続けていかないと、「物わかりの良い子(息子・娘)」でいないといけない、そんな家族の暗黙の空気に抵抗できずに、うんざりして心が重くなる自分にだんだんと鈍感になって、そんな自分がいたことに気づかなくなっていたけど、なにかの拍子に「嫌だ」という気持ちがグワッと出てきてしまって、こんな気持ちをどうすればいいのか、わからなくなったり。。
そんな、さらなる悩みを生み出すことが「とても精神的に健やかな営み」とはどういうことでしょうか?
僕は、このような「嫌いだ」とか「嫌だ」という感情が、その人の内側からちゃんと溢れ出てきたことがとっても人間として価値のあること、生きている証というと大げさかもしれないけど、その人がその人らしいと言える大切な部分に触れたことだ、と言いたいです。その内側から溢れた気持ちに気づくこと、それ自体が「とても精神的に健やかな営み」です。なぜならそれは、その人自身の命としてのあり方につながっている本音、「私を生きる」っていうプロセスそのものだから。
周囲や世間に合わせて「いい人」でいようとしたり、「まわりと同じように」過ごしていくことから離れて、「私はどう感じてるんだろう?」と問い直す、そして気づいてしまった気持ちに向き合う——そこには、その人だけの、かけがえのない「私を生きる」始まりです。
こうした気付きや問い直すことと向き合うことは、とても繊細な心の活動です。一人で抱えてしまうことは本当に難しくて、元の「気づかなかった私」に戻れば楽なんだからと、気づいてもすぐに蓋をしてしまいたくなるし、「こんなことで悩むなんておかしいのかな」と自分を責めてしまうことになったりと、限界があるのかもしれません。
僕はそうしたプロセスにいる人に対して「がんばって私を生きるプロセスを続けて!」なんていうことは、傲慢なんだろうな、とも思います。
だけど、本人がその歩みを進みたいと思っているけど挫折を繰り返してしまっていたり、「私を生きる」ことができたらどんなにいいだろうと願っているのなら、「安全で安心した場での他者との対話」を提案したいです。
自分のなかで大切に拾い上げた気持ちを、誰かにそっと差し出せて、受け取ってもらえる場があったら。そのとき、ようやくその気持ちはモヤモヤしていた感情の塊から「声」として形を表していくのだと思います。
これは僕の体験ですが、カウンセリングを受けてまだ2回の頃、とある電気量販店のプラモデル売り場に行って「プラモデルを買いたいな」という自分の声に気づいたことがありました。そして売り場に行ったのですが、「大人になってプラモデル?」「恥ずかしいよね?」とか、頭の中にたくさん「普通の大人ならプラモデルは買わない」というところから僕をあざ笑う声が聞こえてくるような気がして、買うことはしないで立ち去ろうとしました。
だけど、「自分の声を受け止めてくれた」経験を初回のカウンセリングでしていたので、その声を大切にして、がんばってプラモデルを一つ購入しました。
その後、次のカウンセリングセッションでそうした経験や、その時の気持ちや出てきた思いを話しました。それをカウンセラーさんに正面から受け止めてもらえて、ようやく「プラモデルが欲しかった」思いが救われたような気持ちになりました。(プラモデルを買って終わり、でも、作って終わり、でもないんです)
対話をすることは、自分の気持ちを知ることだけではなく、相手に受け止めてもらえること、受け取ってもらえることも通じて、初めて自分の中にあった思いがちゃんとした輪郭をもったものになっていきます。
受け取ってもらうことも、ただ誰かの耳に入ればいい、でもないんです。話す側にちゃんと関心が向いて、その気持ちを一緒に理解しようとしてくれる相手に受け止めてもらうことが大切です。だからこそ、「安全で安心した場での他者との対話」が必要なのだと思うのです。
もし、あなたの中で「自分の声」に耳を澄まして聞こえたことを、なかったことにしないで誰かに話したいなって思ったら、それは「私を生きる」ための大切なプロセスの始まりです。どうかそのサインを、ひとりで抱え込まず、信頼できる誰かと共有する時間を持ってみてください。
僕が提供しているセッションも、そのような時間のひとつとしてご活用いただけます。
また「ねえねえ きいて」でも、時間が合えばぜひご利用ください。「ねえねえきいて」では、あなたのお話にじっくりと耳を傾けてそのままのあなたが受け入れてもらえる、やさしい時間を提供しています。
そして、もしAIとの対話が向いている方であれば、それもひとつの支えになるかもしれません。使いすぎて依存しすぎないようにバランスをとることは大切ですが、自分の内面や思考の整理の「ちょっとした伴走者」として、とても心強い存在になってくれることもあります。
AIのことも、いつかまた改めて書きたいです。