
無自覚に「世間」を纏う僕ら
知らないうちに自分自身が「世間」を纏っている…と感じたこと、あなたはありますか?
3/30にオンラインで行われた、『“高機能” で巧妙な『世間』に蹂躙されないための心理学』というセミナーを音声受講したことを通じて、自分の中に反射的に湧き上がってくる思いや声の中に混じる、「これまでの経験で刷り込まれた世間」への感度が高まったように思えます。
セミナーでは「世間」とは、目に見えない“空気”や“重力”のようなものであり、「みんなそうしてるよ」「普通はこうだよ」なんていう言葉のように、誰が言ったともわからない“匿名の声”として、僕たちの行動や感情に影響を及ぼす存在だ、というような説明がありました。
明確な理由があるわけではなく、ただ「なんとなく」従ってしまう力や重力(空気)があることで、「自分は違うんじゃないか」と思っても口に出せずにいることが当たり前になっていき、やがて自分の内側にある「わたしの声」が弱まってしまう。そうした経験はこの国に暮らす人にとって、多かれ少なかれ、理解できることなのではないでしょうか?
以前「刑務所アート展」に対しての、反射的な自分の反応を振り返ると、まさに「世間」の感覚だったな、と感じたりもします。
当時のブログにはこう書いています。
自分が「刑務所」というイメージを
「自分とは関係がない」「罪を犯した人たちと関わるのは怖い」などと、
知らず知らずのうちに距離をとっていたんだと、気づきました。
それは自分の中に、
相手のことを知ろうともせずに、疑いもせずにレッテルを貼って
「分断」していたんだ、という気づきでした。
「刑務所」という言葉に対して、どこか「自分たちとは違う」とか「なんとなく関わりたくない」という気持ちが湧いたのって、それは「世間」の中で誰ともなく作り上げられてきたイメージに、自分もまた知らないうちに影響されていた(そしてレッテル貼り、相手と自分を分断していた)ということでもあるように思います。
例えば、「ブタ箱」なんていう差別的とも言える言葉が使われる背景には、自分たち(世間の内側)とは違う(異質で危険な)存在として「(私たちの)世間から出ていけ」という感覚が、明確に隠れているように感じたりもします。
しかしここで僕は、「世間」が常に敵を作り、相手をレッテル貼りして、分断を促す力である、という断定をする気はありません。
ただ、反応的に出てくる思いや考えというものに(そして僕たちが生きてきたことで培った世間の素振りというものに)、一歩立ち止まって「それは私の感情なんだろうか?それとも世間的な反応なんだろうか?」と自問することは大切だと思います。
それは本来一人ひとりの中にあったけど、いつの間にか世間で暮らしていく中で、なかったことにされてしまった「私の声」に耳を澄ますという、とても精神的に健やかな営みなんだろうと思うのです。
こうした自分の中にある「なかったことにされてしまった声」を拾っていくことは、ともすれば痛みを伴うかもしれません。
だけど、一人の人間としての感情や思い、そして願いの起点となる自分自身をを取り戻していく、とても大切で誇らしいプロセスなのだと思います。
その声をちゃんと言葉にして、誰かと分かち合えて「そう思うんだね」と相手に受け止めてもらえたとき、僕たちは「世間」に抑圧されて隠されてしまっていた、ほんとうの自分というものに、少しずつ近づいていけるのです。
(世間の音声講座はこちら)
“高機能” で巧妙な『世間』に蹂躙されないための心理学 ~自分をまっすぐ生きることをくじくシステムを見抜く〜