
世間ー小説ーマンガーAI(vol.0)
以前「世間学」というものに触れたとき、こんな話に大変興味を持ちました。
「ヨーロッパでは12世紀以降、教会で自分の罪を告白する“告解”が義務化され、それが数百年をかけて【個人】が育くまれていった」
この視点はとても印象的でした。
一方の日本では、内面を探索して自分のことを他者に語るということはなく、
目にはっきりとは見えない匿名の世界、<世間>を意識しながら、
互いの顔色をうかがう社会が形成されてきました。
その分、「いただいたものは返さないと」「おたがいさま」といった平等主義や、
相互扶助で支え合う文化も発展していったのだと思います。
そこで思い出したのが、近代文学の小説です。
「世間」になじめずにいる作家自身が、自らの思いを独白する。僕は、夏目漱石や太宰治のような、作家自身の思いを独白するスタイルが浮かびますが、
「私小説」という言葉で語られるものと少しズレがあるのかもしれません。
しかし、こうした日本の近代の文学が、「個人」の内面を描く重要な流れを作ってきたことは確かだと思います。
こうした小説という文化の中において、日本では、「個人」という意識が育まれていったのかもしれない。
そこに、ヨーロッパの告解との不思議なシンクロを感じました。
さらに戦後はマンガの登場が、やがて物語の主人公たちが、その内面を赤裸々に描かれるようになりました。
最近の例でいうと、「三月のライオン」や「正反対な君と僕」など、かなり内面を深く描くことが当たり前のように感じます。
こうしたマンガの興隆によって、「個人」というものがより深く、当たり前のように育つことにもつながっている――そんなふうにも思います。
そして今。大規模言語モデル(LLM)と呼ばれる会話AIが登場し、
これまでカウンセリングや対話の場を持てなかった人にまで、
まるで告解室のように「自分の内面を吐露する機会」を広げているのを感じます。
今回はこのような背景を踏まえて、3部構成で以下のようなことを書いてみたいと思います。
- 世間学を通して見えてくる、日本における個人化への壁と文化的な内面の熟成
- AIによって広がった“無制限な内面吐露”の可能性とリスク
- 今後、個人化が急速に発達してゆく中でのAIのリスクと、その回避への提案