平面な世界と立体な世界

先日「幻祭前夜 マハーバーラタを観て」を書いていて思ったことを少し書きます。

 

その舞台で日本語以外の演者や、マハーバーラタのシナリオを

補足するために、またそれらを理解したいという方々のために、

舞台上の上のほうに字幕が映し出されていたのですが、

 

できれば見てほしくない、という願望が造り手側にあったということと

それでも理解したいというお客さんがいたからつけた、ということ

 

そのような「理解したい」という字幕画面と、

演じて踊る舞台の世界は全く違う目線になるというお話から、

 

字幕として映し出される平面な情報世界

=理解したいという欲望が作り出した世界

 

演じ踊る舞台、立体世界

=運動・時間・空間が同時進行している世界

 

という捉え方ができるのかな、と思えます。

 

そう考えると、

 

現代の僕らの日常には、

PC画面で長時間労働、スマートフォンやタブレットでの閲覧、テレビ鑑賞などなど

あらゆるものをこの平面な情報世界で見ることに費されています。

そこで得ているものは

「何か知らないことを知りたい」

そのような不足感的な欲求が知らず知らずのうちに

習慣化されて稼働されているようにも思えます。

 

つまり舞台を「理解したい」という理由と同じようなものが

平面の情報世界を見るときに存在している、と言えないでしょうか。

 

 

一方舞台を見る目は、

その現場で起こっていることを立体的に目撃するという目線であり、

たとえば舞台以外でいうと

 

音楽をライブで聞くことや

スポーツを生で観戦することと、とても近いように感じます。

 

あるいは、直接人と会って話をする、ということであっても

平面な情報世界だけでは得られない多くの要素をその現場で人は感じ取っています。

つまりそれは舞台的な見方、と言えるかもしれません。

 

「スポーツをテレビで観ることは?」

 

という反論が思いつきますが、

全く同じではないことは、会場に足を運んだ人たちなら

間違いなく感じるものでしょう。

 

生で観戦することは、

そこでどのようにフィールドを観るかは

すべてその人自身に委ねられています。

もちろん解説者やアナウンサーなどありません。

試合中に観客席の美人を探すことも空を見上げることもできます。

 

一方テレビなどで観戦する場合、

放送されている画面しか見れません。

ですが解説者やアナウンサーが逐一内容を補足してくれて

現場での情報を補足してくれます。

時には現場以上に。

 

理解を与える平面は不特定多数に、平均的に情報が与えられます。

体験を求める立体はその人自身にすべてが委ねられています。

 

 

そこで次に想像するのは、

こうした平面世界と現実が交差する世界が生まれていること

つまりMR/AR化する世界はどうなのか?ということです。

 

思った以上に長くなったので続きます。