自戒をこめて
先の「平面な世界と立体な世界」では、
平面な情報世界→
不特定多数に平均的な情報が提供されて、理解への欲求を満たす
立体な舞台世界→
現場にいるその人自身に、ある程度の自由が委ねられ、体験を生み出す
という目線からの世界の区別をとおして
平面世界と現実が交差する世界、AR/MR化する世界とは?
という話の続きを書こうとして7月になりました。
しかし思い直すと、
これは舞台「マハーバーラタ」での
字幕を移していた画面を見る目と
演者が踊り物語る舞台を観る目との違い
についての話の延長であって、
そこまで区別をすべきものなのかどうか?
との思い直したりしています。
といいますのも、そのまま話を進めることは、
それぞれの特色を恣意的に歪曲、とまではいかなくとも
考えるためのベースとして言葉を定義づけした段階で、
それぞれが相反する構造が仕組まれてしまった、ような。
その話の先にあるのは、
「受け入れるのはどちらか一方しかない」
というちょっと行き過ぎな方向に持っていこうとしている
自分の話の組み立てに違和感を感じたのでした。
AR/MR化する世界という話をするにしても
一般的なツールとしての登場は
まだまだこれからになるでしょうし、
それも受け入れる人と
受け入れない人がいるわけですし、
また受け入れる人によっても
時と場所によって使い分けるものでもあるでしょう。
MRグラスが一般に強要されるという時代を思い描くには
あまりにもSF過ぎ、しかもディストピア的で魅力的でもありませんし。
しかし少なくともそうしたテクノロジーは
既存の現実世界の上にオブジェクトを付加して
バーチャルなものを組み込んでいくことと
補足された文字情報などを通して認知する世界を提供するという
その設計思想に、
世界のすべてを「理解と処理」の対象としてしか見れない目線(観点)が
そしてその原動力としての「より便利なものへ」という欲望が
あるのではないだろうか、
という違和感を僕は抱いていることもまた事実です。
意味付け、タグ付け、ランク付け、関連付けされた
ネットワークとビッグデータの世界で
この世界を理解したと考えてしまう人たちの登場と、
今のソーシャルメディアなどのおもちゃのような評価(いいねボタンとか)よりも
Web上の個々人の動き方(どのページをどこからどのように探して見るのか
発信するのか、その内容はどのような分類にあたるのか等)とか
位置情報サービス(だれがいつどこにいるか)とか
金融サービス(だれがいつ何をどれだけ買うか)とか
そんな多様な情報がますます高速に処理されることによって
そうした情報を欲する人たちと
情報をコントロールしたい人たちと
情報を提供されてますます便利に知らず知らずのうちに動いていく人の間で
次第に人間がそれらのデータで把握できる程度のもの、
満足できるものへと
矮小化されてしまう気配を感じたりします。
もちろんそれだけではない動きもたくさんあるので、
このテクノロジーだけが世界を席巻するわけではないでしょうが、
なんでもかんでもデータ化できると思って
データ化したものだけを観て処理していると
人間もまたデータの集まりだけのものになってしまう…
これは自戒をこめての思いですが。