幻祭前夜 マハーバーラタを観て

幻祭前夜 マハーバーラタを観て

先日の16日土曜日、舞踏劇「幻祭前夜 ーマハーバーラタより」をパルテノン多摩にて観てきました。

そして終演後の演出家・小池博史さんが登壇されたアフタートークも聞いてきました。

 

舞台の原典は「マハーバーラタ」という古代インドの神話叙事詩。(初めて知りました)

これはたいへん長大な物語らしいのですが、今回の舞台はそれを基に作った4部完結のうち

2.5部的な位置づけに該当するお話だそうです。

 

 

舞台では中国やインドの演者によるそれぞれの言語と沖縄の方言、

それに日本の演者との多重な言語が飛び交いながら進行していきますが、

不思議と違和感なく、やりとりが心地よいのはなぜなのでしょう。

 

日本語以外の話者が演じるとき、字幕が舞台左上に映されるのですが、

字幕を観なくても分かるように舞台は構成されているという

演出家の小池氏の舞台前の挨拶にもかかわらず、

僕はその字幕と舞台を目線が行き来してしまい、

物語を理解することと、舞台を楽しむことがなかなか噛み合わない難しさがありました。

 

 

アフタートークでもこの字幕についても話がありました。

 

字幕の存在というのは、その言葉の内容や物語の筋を理解したいというニーズへの配慮もあるそうです。

しかし字幕を見る・読むことの目線と、

舞台上で起こっていることを見る目線の違いは決定的にあるという小池氏のご指摘。

 

さらに舞台というものは身体、時間、空間が折り重なって進行されるものであり、

21世紀になって明らかになってきたこれまでの西洋的なアプローチの行き詰まりを経て、

意味のある世界から意味のない世界へ、というような

アジア的なアプローチへの展開から可能性を模索しているそうです。

 

また「理解したい」という態度、

つまり字幕として補足的な理解を得ようとすることは西洋的な態度であり、

舞台上での身体・時間・空間そのものを目撃すること

それ自体がいわば東洋的なアプローチである、

というようなことを話されていたような記憶があります。

 

他には

一人ひとりの振り付けは演じられる場所によって演者なども違うらしく、

前の舞台の制作をなぞってつくっていくが、

別の土地での舞台上での振り付けをそのままではなく、

継承しながらも、現在の演者による身体的な主張を織り交ぜていくような

多層的な構造として踊りや演出がなされているという手法であったり、

 

複数言語を舞台上に用いることで、

あらゆる公演場所がアウェー化していくと同時に、

融和の必要性が生まれてくるということなど、

たいへん刺激的なお話がいろいろと聞けました。

 

これらは複雑化して多様化する現代から未来に向けてのアプローチとして

じっくりと取り組む必要のある、とても大切な態度だと思えます。

 

 

 

中国やインド、沖縄の話者と日本語の多重な言語が違和感なく心地よいのは

こうしたアプローチが丁寧に織り込まれているために

感じることができたのかもしれません。