今ここで、ただ脈々と生きている
私、という分離から、溶けること。
分離から溶けて、我々が根っこで一つのものだよと。たしかに見てくれは違うし、現れ方は違うし、
今起きていることは二つとして同じものじゃない。そして二度と繰り返されないものが常に起きているけれども、
でもそれを起こしているエネルギーは一つのものであって、その一つのエネルギーはどこにも向かっていなくて、
本当はコレがあなただ・11月19日 NIKE瞑想会
今ここで完璧に、ただ脈々と生きているんだ、と、
そしてそれが、あなたなんだ、ということ。
https://www.youtube.com/live/9c3ZhoUme-4?si=9fH1S3ErYso26OEV&t=1168
この言葉を聞いたとき、
「ほんとうにそうだなぁ」と、深い納得が
可笑しみを感じる笑みとともに、自分の中に生じました。
非二元やエックハルト・トールの言う
エゴという幻の自己からの解放ということの
その意味が、頭だけでないところで、理解できたような感じです。
もちろんそうした感覚は、
ずっと残っているわけではないのですが、
一度、そうした深い理解をしたことは
この身体が覚えているものです。
ちなみにここで言われる「私」とは、
フロイト心理学の心の構造論で定義されている
超自我(スーパーエゴ)・自我(エゴ)・エス/イドの「自我」ではありません。
(そもそも観点が違う感じ)
それは「私が私であるところの意識」=アイデンティティ
と言っていいと思います。
なので「私」という言葉の修飾で言いうるあらゆること、
(記憶、経験、価値観、肉体、性格、パターン、振る舞い、嗜好、感覚、等々…)
ほぼすべての「私」と捉えることを含めていると言っていい
範囲の広い言葉として、自分は捉えています。
哲学者の池田晶子はこのように語りました。
私とはなにか
と私が問うときのその「私」は、この顔でも、この名でも、この生い立ち、性格、世界観のどれのことでもなくて、「私とはなにか」といままさに問うているこれ、これは何か、なのである。
P70『残酷人生論』 池田晶子著
ここで問われている「何か」こそが、まさに
その一つのエネルギーはどこにも向かっていなくて、
今ここで完璧に、ただ脈々と生きているんだ、と、
そしてそれが、あなたなんだ、ということ。
だなぁと。