「分断」を意識する

「分断」を意識する

引き続き「刑務所とアート展」についての文章を考えています。

考えていくと、どんどんと脇道に逸れたりするのですが、

それでも続けて考えていくと

「自分にとってこれが大切」というものが見えてくるようです。

そうして出てきたのが、この「分断」という言葉です。

 

当初、僕がこの「刑務所とアート展」というプロジェクト名称を初めて目にしたときに

思ったこととしては、この「刑務所」という言葉がとても強くて、

「この言葉を使うと、刑務所にいる人と、一般の人との距離感がすごく感じられるなぁ」

ということでした。

そして、

そう思ったことによって、自分が「刑務所」というイメージを

「自分とは関係がない」「罪を犯した人たちと関わるのは怖い」などと、

知らず知らずのうちに距離をとっていたんだと、気づきました。

それは自分の中に、

相手のことを知ろうともせずに、疑いもせずにレッテルを貼って

「分断」していたんだ、という気づきでした。

 

「分断」とは、コミュニケーションが成り立たないほどに

互いに距離がかけ離れてしまっている状態だと理解しています。

 

もちろん「分断」それ自体が悪いもの、ではなくて

状況や関わりによっては必要になることもあるものでしょう。

とはいえ、自分が反応的に「刑務所」という言葉に

そのような感情とセットになっていることに、

なにか、言葉にすれば、健康的ではないというか、

凝り固まってて、不愉快な手触り感のあるような、在り方に感じました。

 

少しこうした、反応的に「分断」してしまう態度というものを

客観的に置いて捉えてみると、

2023年12月というこの時代に、まさに起こっている

ガザでの出来事を思い起こしてしまいます。

 

このような映画が示すように、まるで幾世代にも継承されてきたような無理解な状況にあって

その互いに回路を、つながりを生み出す試みは、それ自体がとても

なんというか、手触り感のある、人間を信頼しているからこそ、生み出される

在り方ように思えてきます。

 

そうすると、この「刑務所とアート展」も、同じように

刑務所の中にいて年月を過ごしている人たちと

僕たちのように、一般社会の中で暮らす社会との、制度的に認められた「分断」だからこそ

そこで甘んじることなく、つながろうとする試みに

惹かれているような気がしてきました。