働くことの哲学のメモ

働くことの哲学のメモ

「働くことの哲学」ラース・スヴェンセン著 (紀伊國屋書店)を読みました。

 

この本の中で、自分もまた同じように知らず知らず自然に受け入れていた、
仕事に対する現代の「常識」が鮮やかに描かれている箇所をメモしておきたいと思います。

こんにち、自身の仕事が宗教的義務だと考えているひとなど皆無に等しい。とはいえ、こうした観念のある部分は、勤勉は当人の道徳的気質を示しているという考えがその典型であるように、いまなお残っている。

「天職としての労働」という観念の残滓は、こんにちあちらこちらで見かけられる「真の自己」探しのうちに認められる。私たちが転職する割合は年々高まっている。天職という観念は、近代の個人主義によって変質してしまった。私たちはもはや神に奉仕しているのではなく、自分自身に奉仕しており、「個人」としても自分にたいする私たちの一番の義務は、自己実現だ。だから、仕事も「自己実現」という一般的な項目にふくまれるものとなり、おおよそのところ、「ライフスタイル」の選択という問題になってしまっている。

こんにちの私たちは、ふさわしい・・・・仕事探しに躍起になっており、仕事とそれに従事する人間のあいだには、相性があるはずだと思っている。それはつまり、ある仕事が自分にあっているかそうでないかは、当人がどんな人間であるかに左右されるということだ。(P50)

 

こんにち私たちは、(略)自分の真の―つまり、自分をいわゆるかけがえのない自分に値する者としてくれるはずの―天職を持つ個人という観点でこの問題を考える。

昨今では、私たちの一人ひとりが、特別な・・・存在だと、もしくは少なくともそうなりうる存在だと想定されている。(P51)

 

個人主義の出現によって、各人には自分にたいする新たな責任が、すなわち自分らしい自分になるという義務が課された。私たちはみなロマン主義者であり、だから自己実現という観念の頑迷な信者だ。そこではもはや、すでに与えられている自己など一顧だにされず、新たな自己の創出だけが目指される。真の自己とは自前の自己のことだ。いまや労働は、この自前の自己を創出する過程における一ツールだ。

これを、天職という観念のロマン主義的変形と呼んでもよいだろう。ロマン主義者であることにまつわる問題とは、自分の目標とする究極的にして個人的な意味が完全に実現されることがけっしてない以上、本当に自分が満足を得ることはない、少なくとも永遠につづくような満足が得られることはないという点にある。意味を求める私たちのロマン主義的な欲望を労働が満たしそこねるなら、それは労働が天職としても失敗しているということであり、それどころか労働は、古代のギリシア人たちが理解していた意味でのある種の災厄のように思われてこよう。(P53)

 

私たちの生活は、猥雑でゆたかで多方面にまたがっている。こんなに振幅の激しい可能性をもった生きかたを実演している動物はほかにいな。かりに完璧な仕事だと思えるようなものに、つまり自分はこれをやるために生まれたのだと思える仕事に出くわしたとしても、どんな仕事もひとりの完全な人間としての私たちをすっかり惹きつけるものとはならない。これはきわめて明白なことで、私たちが生きるうえで必要とすることは、けっして仕事だけに尽きはしない。仕事イコール人生ではないのだ。(P234)

私たちの求めるのは、もはやスピリチュアルな救いなどではなく、完璧な幸福だ。だが、いまや幸福とは、それを追求する・・・・権利がだれにでも認められているなにかではなく、私たちのだれにもそうなる資格が認められている・・・・・・・・・・だけのなにかと化している。完璧な幸福を実現しそこねたひとはみな、根本的には敗者だ。フランスの哲学者パスカル・ブルックナーが指摘していたが、こんにちおそらく私たちは、完璧な幸福を実現しそこねているというごく単純な理由ゆえに、だれもが不幸になっているはじめての社会を生きている。完璧な幸福の状態―そもそもこれが、まったくの現実離れした理想だ―を達成しそこなうということそれ自体が、私たちを不幸にする。だから、私たちが自分の人生を幸せだと感じられないとしたら、ちょっと時間をかけて、問題はことによると仕事そのものにではなく、私たちが仕事に寄せる期待のうちにあるのではと考えてみるのもよいかもしれない。(P235)

 

仕事への理解、考え方、天職、
そしてそれらは「自身の生きている意味」というものに容易に結びつく現在の思考方向、

こうした思いはいつの間にか自分で自分を呪いにかけたかのように、
身動きとれなくなって迷い込むことがあります。

 

そうした時に、この本で書かれているように、
「仕事」という言葉の定義を歴史的な経緯を踏まえ、
その多面的な事象を捉え直すことによって
現在の一点を客観的に捉え直す大きな物差しを得ることは、

そのような呪いを解きほぐす力を持つことがあると思います。