すなわち「私とは何か、と問うこれは何か」
昨日書いた「気づいたら生きている(いた)」という話の続きなのですが、
この話のなかで思い出す、2つの言葉があります。
ひとつは哲学者・池田晶子氏の言葉で、
「私とは何か、と問うこれは何か」
と言う内容のものです。
私とはなにか
と私が問うときのその「私」は、この顔でも、この名でも、この生い立ち、性格、世界観のどれのことでもなくて、「私とは何か」といままさに問うているこれ、これは何か、なのである。この否応なさを、デカルトと言う人は、「我思う(コトギ)」の確実さというふうに言ったけれども、彼はしかし、この問いの不思議さをさらに問い続けることをしなかった。「私とは考えるものである」の、その「私」をさらに考え詰めることをしなかったのだ。
(P70 人生残酷論 著・池田晶子)
そしてもう一つが昨日の記事でも紹介した本、ニュー・アースにあるエックハルト・トールの氏言葉で、
「自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。」
というものです。
同書で、著者のエックハルト氏は、
池田氏が話題にしているデカルトについて、このように書いています。
近代哲学の祖とみなされている十七世紀の哲学者デカルトは、この第一義的な誤りを(第一義的な真実と考えて)「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名な言葉で表現した。これは「自分が絶対的な確実性をもって知り得ることがあるだろうか?」という問いにデカルトが出した答えだった。彼は、自分がつねに考えているという事実は疑いようがないと考え、思考と存在を同一視した。つまりアイデンティティ ―私は在る― を思考と同一化したのである。彼は究極の真実を発見する代わりにエゴの根源を発見したのだが、自分ではそれに気づいていなかった。
… その哲学者はジャン=ポール・サルトルである。彼はデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味しているうちに、ふいに、彼自身の言葉によれば「『われ在り』と言っている意識は、考えている意識とは別だ」ということに気づいた。これはいったいどういう意味か?自分が考えていることに気づいたとき、気づいている意識はその思考の一部ではない。別の次元の意識だ。その別の次元の意識が「われ在り」と言う。あなたのなかに思考しかなければ、思考しているなんてことはわからないだろう。自分が夢を見ているのに気づかない夢中歩行者のようなものだ。夢を見ている人が夢のなかのすべてのイメージに自分を同一化するように、すべての思考に自分を同一化する。
(P64 ニュー・アース 著・エックハルト・トール)
僕は、彼らは同じものについて語っていると思うのですが、
つまり、
池田氏は「私とは何か」と考えていることに気づいている意識と、
エックハルト氏の、「われ思う」というその状態に気づいている意識というものについて。
エックハルト氏はここではっきりと
「われ思う」意識そのものその状態に気づいている意識とは別の次元の意識だ、と語っています。
ここはちょっと震えますね。
こうした話は「気づいたら生きていた(いる)」という言葉とも
共通性があると感じます。
「生きている」というまさにその状態そのものの自分と、
その状態であることに気づいた自分、
それは違う意識なのかもしれない、ということです。
「気づいたら生きている」って、
その時はまさにある種の空白のような感じです。
前後もなく「今」という瞬間に、ポツン、といるような。
(これまでの世界観が歴史・過去と未来という時間軸で自分の存在を捉えていたので、
そのような孤独的なイメージとなってるだけかもしれません)
池田氏の言う、「この顔、この名、この生い立ち、性格、世界観」だけで生活は十分なんですけどね…