気づいたら

僕がよく読むブログのひとつに「In Deep」というブログがあるのですが、

そこでは日本では紹介されない世界中の天候や異常気象、さらに宇宙に関連する記事など多岐にわたり紹介されつつ、

書いている方の宇宙や世界観について、いつもとても興味深く読ませて頂いているのですが、

 

先日の記事、

「日本とアメリカの聖山での災害から思いは日本神話にまで至り、そして見出したのは「日本神話は宇宙の科学的真理を語っていた」ということ」
http://oka-jp.seesaa.net/article/410139357.html

におきまして、

古事記において人類の創造をどう捉えているのかという話に大変興味を持ちました。

 

詳細は元記事を読んでいただいた方がいいと思うのですが、

僕が興味をもったのは、

日本神話が、

“この宇宙や人間の誕生についてふれてもいない”

ということそのものが

“「この世の永遠性」を現している”

と思うからです。

という箇所です。

これはこの記事の中で、Yahoo!知恵袋の

神話では人間の誕生をどう言っているのですか?

という質問に対してのベストアンサー、

『気が付いたら居た!』です。
日本神話は、そこら辺は、かなりいい加減(-_-;)

を紹介している話からの流れで、

(何故、「気づいたら居た」という話が「この世の永遠性を現している」といえるのか、
ということはこちらのブログを読んでいただくとして)

この「気づいたら居た」という感覚って、僕は昔からずいぶんと持っていたことを思い出しました。

 

とはいうものの、それは宇宙とか人類創造とかたいそうな話ではなく、

たんに自分が生きているっていう感覚、それ自体が、

「気づいたら居た」といいますか「気づいたら生きている(いた)」

というものなのです。

 

もちろんフツーに考えたらそんなはずはないだろ、となるんですけど、(赤子から幼少期を経て〜等)

ではいつそうした気づきを得たのか、ということについて、

三十二歳頃、絵のコンセプトを捻っている時に当時の正直な自分の気持ちを書いた時にでてきた言葉ではあります。

 

ではあるんですが、話の経緯としてはそう言えるのですが、

この「気づいたら生きている」という言葉を説明するにはどうも今ひとつ物足りない気もして、(それで納得できるような気にもなるのですが…)

結局もうひとつ突き詰めると「気づいた時が生きてる時」となり、

これって「今」としか言えないといいますか、言えないんですよね。

 

そこで「あっ」と思ったのが、

ニュー・アースという本に書かれている「いま」についてです。

あるのは「この瞬間」だけだ。人生とはつねに「いま」なのである。あなたの人生のすべてはいつも「いま」展開している。過去や未来の瞬間もあなたが思い出したり予想したりするときにしか存在しないし、思い出も予想もいまこの瞬間に考えている。つまりは、いまこの瞬間しかないのだ。(P222 ニュー・アース 著エックハルト・トール)

それは「いまに在る」という意識への気づきへの入り口だったのかもしれません。

 

なんにせよ、僕はこの「生きていること」と「気づいたら」という「気づき」という感覚を

日常の惰性の中で、もう少し改めて振り向けていきたいと思いました。