立ってる場所、モノとの距離

比較して、それぞれに違いがある。
その違いが人によってとても大きいものに思えたり、ほとんど問題にすることなんかじゃないように思ったりする。
これはどういうことだろう?
人それぞれの視点が違うことや見方が異なることが、つまりはどうゆうことなんだろう?
適当に切った糸くずを2つ見比べる。離れたころので見ていればその違いはほとんどなく、同じ糸。そこから少し近づいて見るとそれぞれの糸の長さに多少の長短がわかる。さらにどんどん近づくとこの長さの長短の差は、だんだんとはっきりとなり、ついには決定的な差となる。さらにミクロの世界にいけば、その差はもはや比べようもないほどの違いとなって現れる。
逆にもっと離して見れば、まったく同じであるどころか、2本ということも見えなくなり、1本のなにか糸のようなものに見え、さらに遠くに行けばそれはもはや見えなくなり、比較の検討すらできない対象外となってしまう。
これと同じことが、どのようなモノを見るときにも言えるように思う。
人一人、それぞれ違いがある。同じ性別であっても顔の色、目の形、髪型、体型。。近づくにつれその違いがはっきりとわかるが、離れるにつれそれは見えなくなってしまう。おおまかな姿だけ。細長い二足歩行の、服を着た動物。。概念とか、カテゴリーというものはたいがい同じじゃないだろうか。民族、という概念は、生活の範囲、家族の範囲よりわずかに出たに過ぎない近しい距離で捉えられている。しかし離れると、民族の形成の中にいつも混血の歴史があることが見えるかもしれない、民族という垣根が見えない距離だってあるだろう。民族の中もさらに近づけて見れば土地の違う者、職種の違う者、不義を持つ者などいかようにも細分化できる。結局それは、どこに立って見ているかで、その各人の違いが捉われているにすぎない。
問題はこのように物事は各人が立っている場所、モノとの距離によって測られて見えるものにすぎない。そのどれが真実であるとか、正しいなどという議論になると人は感情的になるが、それぞれの場所(つまりは環境)によって捉えられている以上、物事は優劣ではなくて並列的だ。
だが、生きている以上これだけで済まされない場合が多々ある。というか常にそうだ。物事全体がどうであるかを知ること、それと同じぐらい大切なのが、自分自身がどう思っているかということだ。自らがどこに立ち、どのように世界を見ているか、それによってどう生活しているか。そしてその価値をどれほど信じているか。
この揺らぎと変転の繰り返しの動き、そしてそれが絶対的ではなく世界の中で並列的であるということ、世界の価値観が少しづつ狭隘になってきている感のあるこの時代、このアジア的な思いを大切にしたい。なんて思ったりなんかしたりして。