志をのんびりと育ててゆこうと

「志を立てる」とか「初志を貫徹する」と言いますね。

この場合の「初志」や「志」という言葉を僕は、それ自体でもうしっかりと完成されているような、確立されて、揺らがないもののように設置されているような感覚をずっと受けていました。

しかし、これは自分には合わない。ようやくそれが最近になって分かってきました。

 

「志」というものを確立され固定されていると考えることは、その決意・意思が「完全、完璧であること」を意味します。腹を括る、ということも同じ。なにかそれ自体でもう揺らぎようのない確かなもののようなイメージなのです。

しかし僕にとって、「何かを始めよう」であったり「これをやってみよう」というような抱いた気持ちは、たいがい曖昧で脆く、生活の中にいつでも後回しにされたり、気分が乗らなかったりしてできないままであることが多々あります。そしてこの場合、はじめの気持ち、つまり「初志」がそもそも「本物」でなかった、かのように考えてしまいがちでした。

もっと「本物」の「初志」というものは、決意したら必ずそれに邁進できるような、衝撃的で、まるで天啓のように体をしびれさせるような、ものであり、気軽に「何かを始めよう」であったり「これをやってみよう」程度のアイデアレベルなんかじゃないのだ、とか、それを受けたら自分の人生が一変するかのような特別な体験だとか、もう、「志」というものは、神の啓示レベルにまでバージョンアップされているのでした。それこそもう自分で勝手に手の届かないものに、認識から書き換えてしまっていたのです。(これには多分、昔よく読んで影響を受けた陽明学の系譜に連なる人々の言動が大きいかもしれませんが…)

 

そこで思い直したのは、どんなものでもはじめから「完全、完璧」でありはしない、ということです。少なくとも自分にはそのような「完全、完璧」なものを待っていることはやめようと思いました。そして「何かを始めよう」であったり「これをやってみよう」というきっかけとなるような思いが生まれれば、それを焦らずに少しづつ育てることが大切だと気づきました。

 

では育てるとは、どういうことでだろう?

それは「やりたいと思ったそのものをやっている状態」に自分がなることだと思います。

書きたかったら「書く」自分になっていること。

描きたかったら「描く」自分に。演じたかったら「演じる」自分に。

いつでもどこでも少しづつでも、その舞台に立って、その「やりたいこと」を「やっている」自分の時間を少しづつ増やしていくことです。

少しづつ、少しづつ、「三歩進んで二歩下がる」じゃないけど、それぐらいのペースでもいいからと歩んでいくこと、続けていくことが育てるということだと、最近自分を認めるような気持ちが生まれてきました。

三日坊主でもいいんですよね。やりたくなったら繰り返しそこに戻ればいい。三日坊主にまた三日坊主でも。やりたいことをやろうとするのであれば、そこに恥ずかしさなんかいらないから。