大塩平八郎の太虚の描写

参考メモとして、大塩平八郎の「洗心洞箚記」は

「太虚」の説明から始まるとあります。

その「太虚」とは、『荘子』にあるとのことですが、

先日の本、『陽明学 奇跡の系譜』には以下のようにあります。

つまり人間と宇宙とは本来同質なのである。荘子はこの宇宙と人間の同質において、あらゆる人間的な作為の浄化を考えているのである。彼はその宇宙的に浄化された人間の心的境地を「虚」とよぶ。

(福永光司『荘子』人間世篇解説)

大塩のいう「太虚」も、この荘子の「虚」とほぼ同じとみていい。ただ、王陽明の「致良知」の工夫を通して、はじめて「太虚」にいたることができると得。

『陽明学 奇跡の系譜』P151 著:大橋健二

また以下のような説明もあります。

大塩は、人間の本来の心は「天」であり、無欲無心において「虚」であり、ここにおいて人間は天地万物と一体であると述べている。人間が天と同体であることを大塩はこうたとえる。

眼を開き天地に俯仰して以て之を観れば、則ち壌石(土石)は即ち吾が肉骨、草木は即ち吾が毛髪、雨水川流は即ち吾が膏血(こうけつ)精液、雲煙風籟(ふうらい)は即ち吾が呼吸吹嘘(すいきょ)、日月星辰の光は即ち吾が両眼の光、春夏秋冬の運は即ち吾が五常(仁義礼智信)の運、而(しか)して太虚は即ち吾が心の薀(うん)(中身)なり。嗚呼、人七尺の軀(からだ)にして、而も天地と斉(ひと)しきこと乃ち此(かく)の如し。三才(天地人)の称は、豈(あ)に徒然(無根拠)ならんや。宜(よろ)しく気質を変化して以って太虚の体に復(かえ)るべきなり

人間の心は、自身の肉体だけに限られて存在するのではなく、「身体の虚は皆吾が心にして、而して万物の往来起伏するの地」でもある。人間は、その「太虚の体」において、天地と同体同物なのである。

同 P152

「太虚」という言葉を「悟り」とか「涅槃」という言葉に置き換えてみると

その内容は同じ状態を示しているといえるでしょう。

大塩平八郎は陽明学の徒として、

致良知という工夫を前提にしているところが、らしいです。