定常的な社会にある技術の可能性

未来の社会が定常的な状態にあっても

現在活用されているテクノロジーや技術が衰退することなく

継承・発展されているビジョンを描きたいと思っています。

 

そこにある技術とは、

3Dプリンターなどの製造技術や上下水道やエネルギーといった

社会基盤に大切なインフラを管理運用する技術であったり、

建築、農業、漁業などに必要な技術や、

人や物の移動・運搬が自由に行える交通に関する技術など、

今の僕たちの暮らしには、どれも欠けることの出来ない重要な技術のことで、

こうした文明と呼べる生活基盤を支える技術を

テクノロジーがその管理運用をより安全に使いやすく行えるように

バージョンアップが繰り返されてきた現代の流れが、

未来にはどのような位置を占めているのか

そこに必要な思想的根拠は何か等々…。

(なんだか壮大な話になってきた笑)

 

“どう無限性を有限性の器に盛るか”という構図で紹介した

無限とも言える人の欲望を、どう社会に取り込むかという問題において、

技術が間をとりもつ可能性が言えるように思えるからです。

人類が永遠に続くのではないとしたら』(著:加藤典洋)には、

ハイデガーの技術観として以下のような説明があります。

人間の無限への欲求が自然との関わりのうちにかたちを取るものであること、そこに技術が――不可能を可能にする――「力能」(「できる」力)として現れてくることを私たちに示唆している。芸術もそのような意味では自然に働きかける力だが、技術はさらにそれを加えて、自然を「起立」させ、引っ立てる、人間の欲望との間に密接な連関をもつ「力能」なのである。

(同書 P218)

つまり欲求を叶えるために自然を利用し、それを実現させる力ということでしょうか。

とすれば技術が技術として継承・発展するためには、

「自然を利用しようとする」考え、

つまり自然より人間がより優位であるという思想が必要、

ということかもしれません。

 

ですがこうした「自分の欲望のために他を利用する」態度が

現代の悪化する自然環境を生み出していると思っていますので、

利用することをよしとした価値観から脱皮した世界を描いてみたいものです。

 

この引用でさらっと書かれている、

「芸術もそのような意味では自然に働きかける力」

というこの方向に技術が芸術と近づくような

新しいあり方はないものでしょうか。