持続可能な社会の定義について

定常的社会は持続可能な社会とも言い換えられるわけでして、

多くは社会システム的な話になりがちな気がしますが、

『人類が永遠に続くのではないとしたら』(著:加藤典洋)では、

このように定義しています。

「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代の欲望をみたす」ことをめざす社会である。

同書 P81(傍点を太字に変換しています)

僕はこの定義はとても好きでして、

といいますのも、生きている人の存在が現実的に尊重されつつ

未来に向いているように感じるからです。

 

この定義には、人が生きる存在価値を

従来の定義に挿入しようとするところから導き出されています。

それは人が生きるための「必要(快適に、健康に、安心して、楽しく、歓びをもって)」には、

それだけでは充足するのではなく、

「欲望」と「歓喜」によって意味を与えられているという視点。

さらにそれが有限性の世界を人はどう生きるか、という問いの中にあって

「矛盾」を孕まずにはいられないだろうとする予感を抱いているからです。

 

“どう無限性を有限性の器に盛るか”という構図にもこの矛盾を紹介しましたが、

定常的な社会、持続可能な社会というのは

それほど人間の活動をコントロールすることが迫られるものなのでしょうか。

この先は、「欲望」というものの存在が未来ではどうあるのか、

という点を考えていく必要に迫られそうです。

 

ちなみに従来の持続可能な社会の定義とは、

同書の中でブルントラント委員会(環境と開発に関する世界委員会)

という大層な名前のところが1987年に創出したという

以下の定義になります。

持続可能な社会とは「将来の世代が、そのニーズを満たすための能力を損なうことなく、現世代のニーズを満たす」社会である。(『成長の限界 人類の選択』第三版 三二四頁)

 

またこちらでは、国が定義した持続可能な社会を紹介しています。

(国の文章ってなんでこんなに読みにくいんでしょうか…。)

2.持続可能な社会とは | 経済学的な視点から話題27を読み解き、考える

 

ここのページで書かれている

「持続可能な社会では、現在よりも生活の質が落ちることを許容しなければいけないことが、当然のこととしてあり得ると思います。」

という言葉が印象的です。

それが一般的な認識であるようですが、

はたして何が「生活の質」というのか、役人が一般市民に定義するような代物でなく

僕たちはこの世界で何をしたいのか、生きたいのかというところを

真剣に考えることで、こうした疑問は解消されていくのではないでしょうか。

 

(2/2 文章修正)