声を受け入れる

“自分の声を聞いていただろうか。

いつの間にか、誰かのために、自分が感じたことまでも

「そんなことを感じてはいけない」
「そんなふうに感じちゃいけない」と押し殺して、

いい人間になったつもりではいないだろうか。”

僕の小さなテーマとして、

自分の感じたことを素直に受け止めること

というものがあります。

この前のカウンセラーの方とのセッションで、

そうした話題に自然となって

改めて自分の感受性を抑えようとしていた自分に気づきました。

そこから、茨木のりこの「自分の感受性くらい」

という有名な詩を思い出し、

ふと購入した詩集に、

以下のような詩がありました。

もっと強く

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類ものジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
ほしいと

すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味わいたいと

秋 旅に出たひとがあれば
ウインクで送ってやればいいのだ

なぜだろう
萎縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣道具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ。

岩波文庫 茨木のりこ詩集 より

自分の声、ということには

ほんとうのこころの声 とか、

エゴの声 とか、

身体の声、ひらめきの声 とか、まぁ、いろいろありますよね。

そうした声の種類の聞き分けもとても大事だと思います。

しかし、その前提として

自分のどんな声でも受け入れることを許可すること

そうやって「自分はこうした声を発してるんだなあ」と

分かってあげることが大切なんだということを

この詩から思い出しました。