個性=姿?
それぞれの人の姿、それは個性と呼べるものなのだろうか?
「個性」という言葉で人を考えようとすると、その言葉自体がどうも使い古された言葉になってしまったようで、言葉の周囲にいろいろなイメージの付属物が僕の中にあって使いづらい。個性的、というのはすでに何の意味も持たない言葉だと思う。問題は使う人がどう考えて何を表現しようとしてその言葉を選んでいるか、だと思うから、場面や相手によって使い分けられるものでもある。
ただ僕の場合「姿」という言葉の方がその人それぞれの在り方を印象的に表しているように思えて。
この前書いたひとそれぞれにある人の姿それ自身に置いて自らを表現しているということは、「個性」とひとまとめになるとどうも違和感があるように感じた。
「個性」はその人の要素の中のある一点を強調した側面として語られることが多いような。一方「姿」は普段他人が気にならない些細なこと、そうした要素が複合的にからみあって混じってる、それが「姿」だと思う。
語ることによって語れなくなること、語らないことによって語ること。
「姿」はそこに関わってるように思う。