『生きていることの意味・理由』について

『生きていることの意味・理由』について

Instagramでは、日々このブログの記録の中から

適当な言葉を掘り起こしながら、

言葉や内容とはあまり無関係な写真と組み合わせた投稿を続けています。

 

9/19の投稿では、以下の投稿からの言葉を使いました。

 

僕は生きていることには「意味」も「理由」もあると思っています。それはすこし変だけど、「生きている」ことがその意味や理由を示していると思っているから。つまり生きていることが「意味」「理由」を問いつづけ、またその解決を体現している、と思うのです。

 

この言葉を改めて、今の自分が言うなら

どのように話すことができるだろうか、、、

と、この文章について、数日考えていました。

 

そうした書いたInstagramに投稿した内容を、

ここにも記録としてとどめておきたいと思います。

 

 

『生きていることの意味・理由は?』

という問いは

どんな人も、どこかのタイミングで思う

人としての実存的な問いですよね。

 

生きてることには「意味」も「理由」もある、と

言い切っていい、と考えています。

 

だけどこの問いには

解答はない、とも同時に思っています。

 

むしろこの

『生きていることの意味・理由とは?』

という問いは

問いの形をした、

生きようとするエネルギーの発露

のようなものだと考えるからです。

 

ある時は「私が生きている理由は、〜かもしれない」

またある時は「いや、私が生きている理由は、〜かもしれない」と、

様々な経験を経ていく中で

姿かたちを変えながら、

私が生きていることの意味や価値を生み出していく

といえるのではないかと思います。

 

それは、ヴィクトール・E・フランクルの次の言葉と重なります。

 

『私たちは問われている存在なのです』

 

 

私たちは、生きていることの意味・理由を問う立場ではなく、

生きていることの意味・理由を

どのように応える(答える)ことができるのか、と

問われている存在、、、ということですね。

 

問いに対して、答えを外に求めるのではなく、

問いをエネルギーにして

どのような回答があるのかと

自分自身で見出していくことで、その問いと向き合うことができるのです。

 

 

とは言え、ときには

そうした意味・理由を、誰かから、また何かから求めてしまう、

求めざるを得ないときもあるものです。

 

それは生きづらさや、自身に抱える苦しさとも一体となって

頭から離れられない問いになってしまう、

それぐらい、苦しい問いだったりします。

 

 

今の僕は、『意味も理由もあると言っていい』スタンスですが、

少なくとも、この投稿の題材になった

「生きていること自体が無根拠であり無意味であることを知り」

なめらかな社会とその敵(著:鈴木健)P25

という言葉をシステムの材料として定義するのではなく

自分自身の人生に適用しようとするのなら、

ちょっと待って、

フランクルの言葉を思い返して

そこからどんな言葉が自身の胸の内から出てくるか

じっくりと味わって欲しい、と思います。

 

 

Photo by Johannes Plenio on Unsplash