ミキ・カシュタン特別オンラインWS
ミキ・カシュタン 特別オンラインws「離れて、共に 市場経済を超えたニーズへの対応」
という7/25(土)に行われたオンラインワークショップに参加しました。
今回の記事では、
イベントゲストのミキ・カシュタンさん、
通訳をされた安納献さん、鈴木重子さんのスケッチ
そして
話された内容から、僕にとって印象的だったお話
を端的にご紹介します。
こちらのオンラインワークショップでは、
アメリカでNVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)の活動を長年されている
ミキ・カシュタン
という方のお話が聞ける稀有な機会らしく
NVCというコミュニケーションを実践されている人たちにとって
コロナ禍のこの現在の世界は
どのようなに観えているのだろうと、
とても興味を持ったことからの参加でした。
このオンラインイベントでは、
Liveでも200名以上が参加されているという
あまり経験のないくらい大きな規模での開催となったそうですが、
オンラインイベントのゆえなのでしょうか、
スピーカーのみをアクティブにしていると
そんな人数規模が気になることなど一切なく
集中してじっくりとお話を伺えることができた時間となりました。
いくつかの印象に残ったお話はこちら。
このパンデミックの状況が明らかにしたものは
「必要、願い、望み」ということが
市場で対応できていないパンデミックの反応のせいで、誰もがより明確なニーズ(要求)が生じている
これは市場経済を介して満たすことができない
市場を介して満たすことができなかったら選択肢は2つしかない
一つは政府が必要を満たすこと
もう一つ、
人々がお互いに市場経済の外で面倒をみること(ソ連崩壊後のキューバの話)
国外に頼っていた多くの資源が止まってしまった
基本的な日常必需品がなくなった
そのため早急に自給自足となる必要があった
結果、首都のハバナでは食料の50%をハバナ市内で生産することができた
環境が制限されたとき、より創造的にならざるをえない
もしこれが本当にあるならば
このパンデミックの時期は
新たな創造性が引き出される時期だと思われるすべての命を大事にする在り方を見たい
死と向き合う必要がある
死は自然、命の一環
この惑星での消費を減らし、惑星でまかなえる資源の中での暮らしに二度と会わないであろう人たちの面倒をみる
この他にも
NVCでよく使われる「ニーズ」という言葉
これが外来語としてそのまま日本の人たちへも話していることへの違和感、
母国語の中で根付いている言葉があるのであれば
そちらを使ったほうがよいのではないか
というお話も、印象的でした。
(ニーズを日本語にするとすれば、「求め」かな)
ミキさんにとって
各々が住み暮らす国や文化的、言語的背景というものが
物事を理解する上でとても大切な要素であり
また大切な遺産であるという
深い理解ゆえなのでしょう。
もしじっくりとセッションの動画を観たい方は
こちらに公開されているようです。
【NVCと社会変革】ミキ・カシュタンのセッションを受けて ソーヤー海、鈴木重子、安納けん対談
NVCについてはずいぶん昔に少しだけブログに書いたことがありました。
この記事で紹介した動画は
残念ながらすでに切れてしまったようですが、
書き起こしたテキストを改めて読むと
よいなぁと改めて感じましたので、
以下に再録いたします。
まず一番最初に手をつけた質問が、
「どうして人によっては、他人の苦しみが喜べるのか?」
「どうして暴力を楽しめるようになって、」
「悪と判断した相手を、罰する事を英雄的と思うようになるのか?」
「そして、同じ社会の他の人たちはどうして」
「正反対でいられるんだろう?」
「罰するべき悪い人がいると信じる事ではなく、」
「人々の幸福に貢献することに、彼らは喜びを見出す」
そこで見えたのが、
かなり異なった言語と意識を
暴力的な人々と、思いやりのある人々が
それぞれが持っているということだった
そこで、それを明確にしようと思った
お互いの幸福に喜んで貢献をする役に立つ
コミュニケーションとはいったいどういうものなのか?
そしてそのコミュニケーションのプロセスは、
暴力に貢献する人々のコミュニケーションとどう違うのか?
その後、私は非暴力コミュニケーションを生み出した
これは思いやりのあるやりとりを、生み出す役に立つ
言葉、それから影響力の使い方だ
次に気になったのが、もう一つのやりかたは
いったいぜんたい、どこで学んだのか?
それで興味を持ったのが、「これがどこで始まったか?」ということ
この惑星の上で起こる暴力の原因になるような、考え方や
コミュニケーションの取り方をどこで学んでしまったのか?
これに関しては、
学者や科学者、たとえば神学者のウォルター・ウィンクが
書いた本、「The Powers That Be(時の権力者)」や
彼に同意する人たちの意見によると、
それはおおよそ8000年前に始まった
細かい話はしないが、その頃様々なことが起こり
その結果、自分が他人よりも優位にあると主張する少数の人たちが
残りの人たちを支配するような構造が出来上がってしまった
時には、家系が神に近いということを優位さの根拠にした
そして、王族の神聖なる権利に基いて支配した
理由がなんであれ、自分たちが優位であると主張する少数が
大勢を支配する文化をもつようになった
そしてそれは支配するための言語を必要とする
人々が「何であるか」に基いて分類する言語である
その人は日雇い労働者なのか?皇族か?
「善」か「悪」か?「正常」か「異常」か?
そういう考え方が、支配には都合がいい
なぜなら支配構造(Domination Structure)では
頂点にいると主張する人たちは、
何が「善」で何が「悪」であるかを、知っていると主張し
彼らは権力をパワーオーバー(力の行使)の手法で維持する
それはたとえば、「罰」や「報酬」、「罪悪感」や「恥」などである
というわけで、「罰」や「報酬」の使用を正当化する言語を必要とする
それは報復的正義の言語で
そこでは相手が何に値するかを評価する
そして、それは相手をどう評価するかにかかっている
その人はいいか悪いか、正しいか誤っているか、等々…
そのように、おおよそ8000年前に始まったのだと思う
我々は支配構造を持ち始め
少数が大勢を支配するようになった
その前は、狩猟採集民族風の社会を持っていた
私が信頼する人類学の研究をする人々によれば
当時は、その後の時代ほど暴力を振るわなかったといっている
非暴力コミュニケーションは我々にとって、
もっと自然なコミュニケーションだと私が信じている状態へ
戻れるようにしてくれる
我々は進化上の障害物に引っかかっているのではないかと思っている
8000年前に起きた不幸な学習のせいで、
引っかかってしまっている
非暴力コミュニケーションは、生き返る手伝いをしてくれる
もっと自然な生き方へ戻る手伝いを
評価は、ニーズをどのように満たしているかに基いて行われる
我々自身のニーズと他の人のニーズを満たしているであろうか?
誰が「何であるか」ではなく、
誰が正しいか、間違っているか、誰がいいか、悪いかでもない
果たしてニーズは満たされているのか?満たされていないなら、
全員のニーズを満たすために何が出来るだろう?
それが、非暴力コミュニケーションの言語である