太陽によるエネルギーの贈与について
引き続き『建築の大転換』からの引用を続けていきます。
第三章では、「エネルギーと建築の大転換」と題した
中沢新一さんの文章になっています。
まず、贈与というものにおいての引用ですが、
私たちにとって何よりも身近なのが太陽の存在です。
太陽が光輝くことによって、
私たちの暮らしのすべてが成立していることを贈与として捉え直します。
植物と太陽の間にあるのは紛れもない贈与です。太陽は見返りを求めていません。…
地球上の生体圏の生命現象を生み出し、活かしているエネルギー源は太陽です。…私たちの生活、文明も、経済活動も、感情も、もとをたどればすべては太陽エネルギーが地球に降り注ぐこと、そしてそれを植物が変換するプロセスから起こっています。…つまり、私たちの世界の根底には贈与の構造がセットされているのです。
…生命が発生し、それが生き続ける条件をつくりだしているのは、太陽によるエネルギーの贈与です。命あるものでこの贈与の恩恵から免れている存在はありません。(P188)
この「私たちの世界の根底には贈与の構造がセットされている」という認識が、
人間と社会、自然との関係の基本として広く認知されているのであれば、
必然的に自然そのものへの畏敬の念、
という感情も生まれ育まれるのではないでしょうか。
しかし一方では、現代においては以下のような反論も可能であると思います。
太陽は自然現象として頭上に輝いているだけで、朝や夜、また季節が巡るように私たちの経済システムにとっては関与しないものです。
それはせいぜい太陽エネルギーなどのように、利用するか、しないか、という裁量の範疇にしか過ぎません。
農業による収穫においても、太陽光に代わりLEDのような人工光で栽培する開発なども進んでいますし、太陽光のエネルギーが贈与であるかないかは、私たちの社会システムやテクノロジーによっていかようにも変わります。
これはやや強引な反論かもしれませんが、ここにある
太陽光はただ「あるもの」にすぎない
それを利用するかしないかを私たちで選ぶことができる
というような態度は、こちらの投稿で引用したような
自然をシステムの中では考えず無視することであったり
資源を取り出して利用する対象としてしか考えないという
現在の自然への基本的な立場だと思えます。
ただ「太陽の贈与によって私たちの命が育まれている」
という認識すら分解されてしまう状況にあるのが現代なんですよね。
人工光での農業の可能性では、
こちらの記事のように、作物というものに対する認識が問題かも、と思えます。
人工光の波長などを工夫してこれまで以上に美味しく、栄養価の高いものを、できるだけ短時間でたくさん栽培することです。…
…青色など紫外線の波長の長い光を当てると、酸化ストレスから身を守るために、植物はビタミンCやカロチノイド、ポリフェノールなどのいわゆる抗酸化物質をつくります。結果として人間にとっては、栄養価が上がる…
WISDOM 農業の未来を照らす新たな“光” より
ここではすでに作物は「命」ではなく、
「栄養価」としてしか認識されていないのでは、と僕には思えます。
いただきます、も、ごちそうさま、も言う必要のない食事ですね。
こうしたテクノロジーが必要とされる背景にあるのが
近未来の地球上の人口増加と食糧危機の問題です。
僕はこの問題そのものの前提がおかしいのではないか?という疑念を持っているためか、
これが論拠になっているものにあまり関心を抱けません。
それよりも国内自給率の問題やゴミとして捨てられる食事、
食べることについて考えなくなってしまうことの方がより逼迫しているように思えます。
ですが自戒を込めて思うのですが、
こうしたテクノロジーを「敵」と考えることもまた違いますよね。
むしろ食を考え、農業を考えて未来を見据える視点を持っている
というスタンスでは同じだと思います。
こうしたテクノロジーに必要な研究精神と伝統的な農業の精神が手を組むことにより
生まれるであろう新しい未来を思い描いてみたいものです。