トーラスとキアスムが一体となった「ラカン/ケネー・モジュール」
さて今日は引き続き『建築の大転換』第三章より、
贈与に関する箇所を引用したいと思います。
(もう7回目なんですね、この本での引用は。)
贈与に関してはすでにこちらの投稿(贈与的状態としての考える行為)で
「私とあなたの間に通路をつくり出すための交換」
というところをご紹介しましたが、
この章では、その内容についてもさらに細かく説明されています。
…贈与はキアスムの構造を使って行われ、人間と人間の間に心の絆が結ばれていきます。…キアスムの構造の中では、まるでメビウスの帯のように表と裏がくっついていますから、表と裏、私とあなた、人間と自然が接続してしまいます。…
…キアスム構造の中では、計量化が難しく、論理は非線形になっていきます。トーラス空間の表面では、「私」を中心にして世界を言葉でとらえて組織していく線形論理が働いていたのに、キアスムの構造を通ると「私」の中に「私でないもの」の原理が入り込んできてしまい、「私でないもの」の原理を自分の中に取り込みながら動くしかなくなっていきます。すると論理は必然的に非線形になり、計算が非常に難しくなっていく。第一種交換(※線型空間。計量化や論理判断が行われる)をしようとしても、必ず「余り」が生じてきて、成立しなくなっていきます。(P192)
この「キアスム構造」とは、
過去の投稿(交叉・一体するキアスム型知性へ)などにあるように、
“主体と客体が相互に交叉して一体になる構造” と言えます。
これは以下のような図を用いて説明されています。
この図では「主体と客体が一体となっているキアスム構造」の部分が
イマイチよく分からない気もするのですが、
見るとここではこのキアスム構造だけでなく、
トーラス構造も同じモジュールとして一体化されて組み込まれています。
トーラス構造とは、
“「私」を中心にして世界を言葉でとらえて組織していく線形論理”
が働いている構造ですので、
自然を外として対象化する「ヨーロッパ型抽象(過去投稿)」や
物を買う「等価交換(過去投稿)」と同じ働きを持つ構造と言えます。
それらが同じ一つの構造の中に組み込まれているのが私たちの「心」だと言います。
私たちの心の中には、線形=論理的な構造と非線形=非論理的な構造があり、これが等価交換=第一種交換(=線形=論理的、トーテムの構造)と贈与=第二種交換(=非線形=非論理的、キアスムの構造)のせめぎ合いという矛盾を生み出しています(P200)
つまりこれらはそれぞれ別の問題ではなく、
二つでワンセットとして一体化されているものだという理解になります。
まるで陰陽の太極図のように。
しかし現代では、一方のトーラス構造しか活用せず、
もう一方のキアスム構造を無視してきました。
となると、未来においては当然それらを統合する思考方法というものが必要になってきます。
モダニズムが隆盛を誇る中で埋葬されてしまっていた一つの思考方法があります。それは線型空間と非線形空間を対立させることなく統一する思考方法であり、自然の側の潜在空間の中に出発点を置いて、自然の内部にあるマトリックス、すなわち子宮が自己展開していく運動そのものをつくりあげていく建築構造をつくり出していく、という思考方法です。人間はこの思考を、宗教建築の形で現実化してきました。…神話学者のレヴィ=ストロースは、それらにこそ人間の思考方法の秘密があり、これから人間が向かっていかなければいけない、来るべき世界の思考方法のモジュールが存在していると何度も強調しました。そしてこの思考構造は、建築にも、人間の心にも、経済の構造にも通じていくものだ、と言っていたのです。(P220)
この宗教建築が現実化してきたという
「自然の側の潜在空間の中に出発点を置いて、
自然の内部にあるマトリックス、
すなわち子宮が自己展開していく運動そのものをつくりあげていく」 構造は、
上記のトーラスとキアスムがワンセットとなった「ラカン/ケネー・モジュール」図を
忠実に反映したものだと言えそうです。
次にこの「ラカン/ケネー・モジュール」を基本として
「自然と敵対しない建築」
「贈与という仕組みを組み込んだケネーの重農主義―フィジオグラシー」
という話を引用したいと思います。