交叉・一体するキアスム型知性へ

『建築の大転換』の第二章、“人と自然の大転換 2 自然と人間をわけない建築”

での中沢さんと伊東さんとの対談の中で、

「抽象」という話題から現代の問題点の根本的ともいえる、

自然と人間との関わり方についての指摘があります。

この指摘は、未来において人間のあり方を考えていくときに

とても大切な内容だと思えます。

 

伊東 …現代建築の根底にある原理を根本的に変えないとだめなんじゃないかと思うからです。…我々建築家がみないまだに拘っている抽象の問題があります。…自然と言ってもそれは本当の自然ではなくて、近代主義の枠の中でつくられた自然であり、その中で建築家は自然について語り、その中で建築についても語っている。また、その中で人間についても規定している。その枠を外さないとどうも次の建築はないのではないか。…

中沢 …抽象という言葉はいろいろな意味があって、実に大きな概念ですが、今、僕らが理解している抽象というのはひじょうに狭い抽象でしかありません。…それは西ヨーロッパで主に発達した抽象の考え方です。それがある意味、普遍性を演出してきましたが、この演出の時代がもう終わり始めているんじゃないかという印象を強く受けています。(P105)

ではその抽象とはいったい何なのでしょうか。

中沢 …ヨーロッパ型の抽象というと、自然を切り離して人間の内面的な思考の中へ入って、その思考を抽象化して取り出してくるという抽象が一般化しています。しかし、内面と外の世界を分離し、外の世界を対象にする、自然を外として対象化するという考え方は、人間の世界の体験の仕方として普遍的なものではないんです。(P106)

 

現代では当たり前になっている “「内面と外」によって世界を対象化する思考”

それ自体が人間として普遍的ではない、限定的で特別な思考と言えそうです。

人間が自然と接する態度には二つのタイプがあると中沢さんは言います。

中沢 …主体と客体の間に一種の交叉が発生する状態、空間があって、明確に分離することができない…キアスム(交叉)と言います。交叉とは、主体と客体が相互に交叉して一体になってしまう、そいう空間がつくられれるわけです。…キアスムというのは主体と客体が行ったり来たりしてますから、矛盾した関係になっています。…内も外もひとつながりになっているような構造なんだと…要するにキアスムは矛盾に満ちています。人間と自然の間に通路が発生していますし、明確な分離ができません。明確な形態もできない。

そこには明らかに何かの知性が働いています。おそらく抽象能力というのは人類の普遍的な能力で、知性そのものと言ってもいいだろうと思います。…キアスムみたいな世界のとらえ方で知性を働かせたときの抽象性と、人間と自然が分離したときに働く抽象性と、ふたつのタイプができてしまうんだろうと思うんですね。…建築や美術に大きな影響力をもってきた抽象性というのは分離型の抽象性です。しかし、幼児や未開社会の人たち、あるは普通に僕たちが日常生活で体験しているこの空間はキアスム型で動いている。(P107-108)

こうした主客が分離できないという思考に対して、

僕は祝祭的なイメージを想像します。

特に伝統的なお祭りなどには常にエネルギーの発散・蕩尽と

新しいエネルギーのための蓄積する空間をつくる動きが混合一体となっているように感じます。

またこのような主客が交叉・一体になるという形には

贈与のような分け与える、お返しするという関係にも展開されている話だと思います。

 

中沢 また、おそらくモダニズムと呼ばれたひとつの思想や建築、美術、芸術の流れも全部その思考をベースにして展開されてしまったということなのだろうと思います。それがだいたい行きづまってきている時代に今僕らは差し掛かっているんじゃないでしょうか。

伊東 今僕らは近代的な思考や合理主義の時代に生きていますけれども、十数万年前の間、人間はずっと近代型ではない時代を生きていて、いまだに近代型ではないものが私たちの世界を覆っている、近代的ではない世界のほうが異常なようにみえますけれども、中沢さんからするとそれは全く逆である、という訳ですね。(P109)

 

このような矛盾したキアスム型知性がどのような未来を形作るのか、

想像はまだまだ果てしない限りです。

 

それにしても現代の問題点のそのほとんどが、

こうした内と外という、心身二元論のような分離型の知性によると思えてしまいます。

一方新しい未来の動きの根本には、こうした自然と一体となり

主客が一体となる思考が働いていると思います。

アグロエコロジーなどの食や農業の面では、

特にそうした傾向が明確に現れやすいかもしれません。

 

未来における新しい思考には、

人類が普遍的に持っていた自然との交叉・一体感を取り戻し

しっかりと根付かせることにあるのでしょう。

そうした意味では「目に見えないもの」へアプローチするスピリチュアリティな関心も、

そのキアスム知性と大きく関わる要素となると考えます。

 

 

追記:キアスムについての記述がありましたので、

こちらに追記しておきたいと思います。(3/10)

中沢 …具体的に生きている世界は本来キアスムでできているんです。「私が花を見てるんだけど、花も私を見てる」という状況が普通。でも、この考え方はヨーロッパの哲学では認められない。

藤森 認めないんだ。

中沢 認めないですね。「私」と「世界」を分離して、認識している私が出発点である、とするのがヨーロッパの思考方法です。
一方、キアスムの思考法を強調したのが西田幾多郎たち。…この別の思考方法を西田幾多郎はとりあえず「場所」と呼びました。場所には私と花の両方がいる。こういう場所を最小単位にして世界をロジカルに組み立てていこう、と。
…人類はこの考え方で十万年くらいやってきたんです。ところがギリシャ人がそれを否定し始めた。私という個が出発点になってそれがまわりの世界を認識していくんだ、という構造になってしまったんです。(P146-147)