二十世紀建築とグローバリズムの原則の親和性

引き続き『建築の大転換』より引用を続けます。

 

第二章の 3 縄文のこころと建築より。

ここでは対談に建築家の藤森照信さんが加わって行われています。

中沢 …一方からもう一方へはジャンプしないといけない、ということをしきりに主張する。マルクスも『資本論』の中で物物交換をやっていたところに貨幣がでてくるくだりで、「さあ、飛べ。ここがロドス島だ」という言い方をする。つまり「貨幣にジャンプしろ」というわけ。…
藤森 対立をずーっと平行させたっていいんだよ。
中沢 ずるずると向こうのほうへ入り込んじゃったっていい。
藤森 物物交換と貨幣経済の両方をやってたっていいんだよ。
中沢 ずるずると自然と人工が、つながっちゃう思考方法もあると思います。(P137)

こうした平行させるとか、ずるずると、という表現は

現代ではどちらかと言えばマイナスなイメージの言葉だと感じてしまいますが、

それはきっちり線引して、区別したり、カテゴライズしたりという

それこそ建築以外でもそうした考え方が日常的になってしまっているからでしょうか。

そこにこだわらない柔軟な物事の捉え方は必要ですね。

 

藤森 自然というのは木とか水とか、ごく普通の目の前にあるもの。ところが近代建築、二十世紀建築はは科学技術に立脚するという基本を固めて以来、自然については一切触れない。自然がいいとか悪いとか言わないんです。自然については触れない。もう一つ、二十世紀建築が触れなかったものがあって、それは「過ぎたこと」、つまり過去には触れない。
つまり、二十世紀建築は自然と歴史を外部に置いて建築をつくる論理を立ててきた。究極的には数字をもとにした建築。自然を批判したわけでも、興味がないと言ったわけでもまったくなくて、ただ触れなかった。触れたとたんにおそらく自分たちの論理が崩れることを、二十世紀建築の担い手たちは敏感にわかっていたからに違いない。自然と歴史の二つが二十世紀建築と全然違う原理だとわかっていた。(P140)

この藤森さんが指摘されている二十世紀建築の原則って

けっこう驚きと同時に納得する感じです。

昨日の投稿にも伊東さんが

それは本当の自然ではなくて、近代主義の枠の中でつくられた自然であり

というように、せいぜい部分や部品の一つとして取り扱われる程度だったり。

(新しく新築が立ち並ぶ「街」のひとつひとつに新しく植えられる木々なんかも)

もっとも最近の建築は、その立地の歴史的条件とか気候風土、

日の移り変わりや周囲環境との親和性などを

取り入れるようになってきているようです。(テレビとかで見た程度ですが…)

それにしても「自然について触れない」という態度は、

結局人が足元の土や大地とも切り離されてしまうことですよね。

農業とも関わりそうな話題です。

 

中沢 今のグローバリズムの原則をざっと整理するとこうなります。

欲望する個人が出発点である。
経済活動の外部性、すなわち自然のことは無視する。
生産は瞬間的に行われる。

この原則、ほとんど近代建築の原則と同じです。数学がベースにあって、外部性を除去して、生産プロセスは効率的に瞬間的に行われる、という原則です。もっとも建築には「美」という問題が入ってきますから、経済ほどひどい発展はしません。でも同じようなものをつくりだしてしまう。そのベースには数学がある。数学は人間の脳の中だけで行われることで、外部性を除去するんです。
…人間が十九世紀から二十世紀にかけて、たった一つの方向に怒涛のように流れていった最大原因がこの原則です。(P144-145)

この原則は上の二十世紀の建築とも重なり、

また大規模農業の原則とも同じように思います。

なぜなら大規模農業では自然を扱っていながらも

結局それは経済活動内での生産のための道具になってしまっているからです。

この原則と、分離して世界を見る・解釈する思考方法も

外部性を除外しなければ分割して考えることはできませんので

同じものだと思えます。