島袋道浩の「美術の星の人へ」を観た

3/7 ワタリウム美術館にて、島袋道浩の「美術の星の人へ」を観た。というか、体験した。
「やるつもりのなかったことをやってみる」という唐突なシチュエーションが好き。思いつきのような作品とも思えてしまいがちだけど、もし思いつきならば、その思いつきを思いつくままに、躊躇せずアクションをおこし、記録し、作品として提示していることを、続けていること、その生き方自体に驚きとこの人(作家というよりも人、といったほうが的確な気がする)たるゆえんがあるように感じる。そうして行われ続けた、提示し続けたことの中に、この人自身の思いつき(というととても表面的で浅はかな、マイナスイメージのある言葉だか)そのものにある深さというか、キャラクター、人柄がしっかりと全体に通っている。それもそんなことを見せようとしないで。さらにその一つ一つの作品にあるアイデアの向かう先が自分自身なんかでなくって、自分以外の人やものや要素との繋がりだったりを志向しているから、いや、そもそも自分以外の誰かとのつながりを―実現していることが、とても人間的で一見表面的に見えるだけなのかもしれない。思いつきのように見えてしまう、ということのほうが、実は何かもっと大切なことなのではないだろうか。もちろん思考し続けたテーマというのも面白いし意味深い。この前の「ライトインサイト」なんて企画展だから特にそうで、人間の視覚の歴史年表が途中にあるぐらい、人間にとっての視覚やそのあり方の変容と時代やテクノロジーとの関わり合いを探索したものだから、それぞれ展示されていた作品の意味-なぜこの作品がこの時代にこのようにして存在しているのか-を体験の面白さとは別に認識させる。
だけど島袋さんの展示にはそうしたものは必要とされていない。その存在そのものがアートいう文脈を引き寄せるぐらい、引力のある存在だ。ここでの展示にはユーモアと言い切ってしまうことのできない、真摯な世界との新しい対峙、会話が十分に潜んでいる。そして肩の力をすっと抜いて、一歩前へ進むことを後押ししてくれるような、ポジティブな感覚に満ちている。
アーティストというものを定義するならばそれは現在、その人自身の生き方をそのままに示していく、最も嘘のきかない-というか必要のない存在で、だからこそ「どう生きるか」という誰もが抱くテーマの無限な回答を提示し続けていく人たちのことだ、と思うと、島袋さんその人そのものはまさしくアーティストそのものだ。
人はどう生きようともその人自身を周囲に、社会に、世界にコンタクトし続けるし、そのことによって表現し続ける。アートはそのことを別の方法で気付かせるスイッチとも言える。