ライト・インサイト展レポート

見たその日にレポートをアップできなかったが。。。
2009,02,28 ICCにて ライト・インサイト展
最終日に訪れたこの展覧会、とても面白いものを見た、という全体の印象。
一つ一つの作品に掲示されているキャプションは、内容と意図を理解するために不可欠。理解する、ということが求められることには、その理解によって作品を経験化し、それを経験化した知識として肉体に取り組むことによって、観客の世界を見るまなざしがほんのりと変化してゆくような感覚を喚起させる。
たとえばベングト・ショーレン&アーダーム・ショムライ=フィシェルwithウスマン・ハックの「WiFiカメラ・オブスクーラ」。この空間の中に漂う見えない電磁波の周波を視覚化する作品は、こうしてインターネットや携帯などの無線電波に溢れる日常にいながら、そうしたものを一切意識しないでいる自分たちの感覚を、視覚化することによって喚起させる。しかもそうして視覚化されたビジュアルは、真っ黒の画面のなかにほのかに光る灯りとして、ささやかな美しさを表示する。
また、藤本由紀の「PRINTED EYE(LIGHT)」は覗き込んだファインダーに「LIGHT」という文字をフラッシュさせることで、覗き込んだ体験者自身の目―網膜にその文字を光の残像として焼き付ける。ここで、自分の目というものがともすれば普遍的な風景とイコールであるように気付かずにいつつも、ここで物質的な「目」という器官を通じて世界を見ていることを再確認すると共に、瞼を閉じて焼き付けられた文字「LIGHT」を眺める―という個人体験を味わうことになる。瞼を閉じながら焼き付けられた文字を眺めるという体験は、網膜に焼き付けられた危険性を感じると共に、美しくはかなくやがて消え去っていくその文字を、見るという感覚でなく、どこか想像するに近い、別の感覚的な世界を見せてくれた。ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニの「オーラ・リサーチシリーズ《ニーチェが洗礼を受けた教会 》」では、同じ場所、同じアングルの普通の写真とキルリアン写真とを並べて展開したシリーズの作品。キャプションにより、双方の撮影方法が異なることなどで、一つの場所、風景の見える見えないを超えた多様性を示している。(キルリアン写真:高電圧(3万ボルト以上)、高周波(3000Hz前後)の電圧をかけた中で写真をとると、まるでオーラや生体エネルギーが撮れたかのようにぼわんとした美しい輝きが写真感板上に写る現象らしい)
そして、とくに印象に残るのは、インゴ・ギュンターの「サンキュウ インストゥルメント」(写真はICCから転載)。
ほの暗い一室に若干の薄緑色をしたライトが空間全体を照らし、左手側にこの空間にいる人たちの影が投影されている。入ると目につくのは、その自分たちの影を見ている観客たち。僕もそちらを向いているうちに、背後で一瞬強烈なストロボ光が発する。とその瞬間、壁に投影されていた自分の影が固定化されてそのまま残っている!これは強烈だった。正直怖い!
以前広島の原爆の話で、その爆発の強烈な光によって、その光を浴びた人の影が壁に残っていたという。それをすぐさま思い出す。そして数分の間、固定化され、残っている自分の影の恐ろしさに慄く。まるでなにかを捕られてしまったようだ。昔写真を撮らると魂を捕られるなんて言ってたそうだが、笑えない。この影を捕られてしまった感覚の異様さは、すごかった…。
この作品は事実、広島の原爆に関して制作された作品で、1995年の広島現代美術館の「被爆50周年記念展 広島以後」という展覧会にて発表されていたそうな。反響すごかったんじゃないかと想像する。
他にも、アンソニー・マッコールの「You and I, Horizontal」や、ミシャ・クバルの「space-speech-speed」など、美しい作品もあり、展示総数は少ないながらもとても充実した展覧会だった。
現在、内部視覚が投影した像-ビジョンとの混合による風景ということを考え始めているので、いい機会でした。