『千年万年りんごの子』から死を思う

『千年万年りんごの子』から死を思う

『千年万年りんごの子』というマンガを読みました。

まだ読んでいない人はぜひ読んで欲しいと思うマンガです。

可愛らしい絵も取っつきやすくてとてもいいです。

※マンガは全3巻。こちらはその2巻のリンク

 

これはりんごの村を舞台にした夫婦の話なのですが、

僕は自然界にある贈与と死について描いた物語だと思いました。

 

村にあった禁忌を破ったことから物語が進んでいくのですが、

その禁忌の背景に生贄の風習があることが描かれます。

生贄というものを現代人から見たら、

まったく非文明的で非人道的でしかないものとしか映りません。

主人公も同じような反応をするのですが、

毎年毎年、変わることなく種から苗が育ち、花が咲き実がなり、

収穫を得るという自然のプロセスを経験してきた村の老人は、

そうした禁忌を含むしきたりというものは、

この自然のプロセスそのもの中にあるものだと諭します。

 

 

過去に自然における贈与について

いくつかの引用を書いたことがあります。

太陽によるエネルギーの贈与について

贈与的状態としての考える行為

食・自給・コミュニティ、そして生産と贈与

だけどここで僕が捉えていた自然には、

はたしてこうした恐ろしさを含んでいただろうかと

自問せずにいられません。

 

太陽は絶えることなく、恵みをもたらすエネルギーを贈与していますし、

自然は増殖のプロセスを通じて、人間に食物を贈与し続けています。

しかし自然の力は、時に無慈悲とも思えるように

あっという間に命を奪っていくものでもあります。

 

贈与とは「私とあなたの間に通路をつくり出すための交換」である以上、

こちらの人間側から自然側への贈与もまたあったと言えます。

それがいわゆる生贄というものが存在した根拠なのかもしれません。

 

贈与のプロセスやその自然を思うのであれば、

当然そうした暴力的な、命を収奪する力の側面もあるのは理解していますが、

その当事者の関係者にとっては、

ただただ「死」それしかありません。

 

※3.11以降に作られた斉藤和義の「雨宿り」では、

「神さまは忙しくて連れて行く人を間違えてる」という歌詞がありますが、

これは震災で親近の人を失った方々の思いそのものだと言えると思います。

 

僕はこのマンガを読んで、

「死」が社会において捉えられていないという

「死を思う」ことの人間社会の難しさを思いました。

 

現代は、一人ひとりの命を大切にしようという価値観の社会だと言えます。

であるがゆえに僕はこうして安全な生活をさせてもらっているし、

それぞれの人のつながりで出会う人は、それぞれにおいてかけがえの無い存在でもあります。

 

そしてまた現代は、

「死」を思うということがとても少ない機会の社会でもあります。

 

「死」は、すべてが終わり、なのでしょうか。

「死んだらおしまい」なのでしょうか。

少なくともそうした思考は、数十万年の人間の歴史から見ると、

極めてマイナーな考えであるらしいです。

 

近しい人が死ねばもちろん悲しい。当たり前です。

だけど悲しいからと言って、「死んだらおしまい」、ということを証明している訳ではありません。

「死」がすべて終わり、なんて、そんな単純なことではないと思います。

 

日本はこれまで、そうした「死」の悲しみを、

豊富な自然環境の中で中和させてきたのかもしれません。

自然を失うことで僕たちの社会は、

「死」というものをただの「失うこと」だけにしてしまったのでしょうか。

 

とすれば僕たちの社会の中に自然をとり戻すことは、

「失う」だけではない「死」をとり戻すことなのかもしれません。

 

 

画像出典:マンガ一巻読破(http://manga-1.com/?eid=6690)より