知る責任?
知る、ということに責任はないのだろうか?
知ることと行うことは一つだという「知行合一」という陽明学の観点でみると「ある」と言えるのだろうか。
だがこの時代はあらゆる情報が流れ続けている。ニュースでは誰もが探偵のように犯人や事件の背景を語る。証拠が出れば逐一流すこともある。
知る権利が謳われだしてマスコミはそれを盾にとってる。情報が流れることによって密室のぐじゃぐじゃした卑劣な事柄が表沙汰になる。第三者による監視の必要性、客観性、情報公開は今は義務だ。
だがその情報を受け取る側は、その情報をどうしているだろう?
受けた情報があまりにも膨大になりすぎで、情報を受け流すことを習慣としなければ生活できない時代が続く。むしろますます苛烈になる。
情報の摂取選択はすでに義務だ。それによって知り得た情報をどう活用するか、アクションを起こすか(お越しえるか?)という責任が問われるようになるのかも。