技術への問いから想うこと
未来ということを想像したり考えたりするとき、
「技術」という、
これまでの人間が自然に対する態度というものの可能性を
ここ最近考えたりします。
昨日書いた「人間の都合とはなんだろう」という
人間の都合、という言葉にも、
この技術のあり方や使われ方が孕んでいるように感じます。
僕には「技術」のあり方の根底には、
人間の生存のために自然を「利用する」という態度が
見え隠れしているように感じていたのですが、
この論拠のおおもとは、ハイデガーの「技術への問い」にあるようです。
まだこの「技術への問い」を読んだことがなく、
こちらの方のブログ解説をもとにした理解程度であることをご了承ください。
現代技術は自然に対して、
「用立て」という言葉で説明されています。
この本を解説したブログには以下のような記述があります。
現代技術はポイエーシスではなく「用立て」になっている
しかし、ハイデガーいわく、現代技術はポイエーシスではない。それは悪しきアレーテイアの方法、すなわち事物を用立てることであり、事物を「挑発」することに陥ってしまっている。
【本文解読】
しかし、テクネーが詩的なものであることは、自然科学に基づいている現代技術に対しては当てはまらないのではないか、と言うひともいるだろう。現代技術もまたアレーテイアだ。しかしそれはポイエーシスとして、前へともたらすものではない。それは一種の「挑発」である。現代技術は自然に対して、エネルギーになるようなもの(石炭や穀物)を引き渡せと要求する。昔の風車もそうだったのでは、というひともいるかもしれない。しかし風車は風に身を任せるだけで、エネルギーを開発するわけではない。
かつては農夫も種をまき、成長を自然にまかせているだけだった。しかし今やこちらから育てようと働きかける。これは自然を「用立て」することだ。用立ては、開発することでエネルギーを外へと運び出し、しかもそれを加速させようとする。
ここから環境問題などの観点から、
現代技術というもののあり方が
「人間の都合によって、自然のものを―挑発―させ、有用なものとしている」
という話になりやすいようです。
これは「人間の都合」という言葉で示されるものでもあり、
確かに僕もそうした理解を持っていました。
ですがこの解説の方が最後に
このハイデガーの技術論は結局のところ
原理が何もないので議論にならないとあります。
要するに、人間が生活の配慮によって自然世界を利用すれば、それだけですでに用立てということになる。文明それ自体が用立てによって成立したとさえ言えてしまう。これではまったく議論にならない。
確かにこれでは話は進みません。
文明を所有する人間そのものが否定されてしまいます。
しかしこの解説を読んでみると、
技術ははじめ「アレーテイア」という言葉で説明されています。
〈こちらへとー前へと-もたらすこと〉とは、伏蔵性verborgenheitからこちらへと、不伏蔵性のうちへと、前へともたらすvorbringenのである。〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉がそれ自体の固有性を出来させるのは、ただ伏蔵されたものが不伏蔵的なものに至る場合だけである。このように不伏蔵的なものに至ることは、われわれが開蔵Entbergenと名づけるものにもとづいており、またそれのうちで揺れ動いている。ギリシア人は、この開蔵のためにアレーテイアἀλήθειαという語をもっている。
【本文解読】
その意味で、技術とはただの手段、道具ではなく、アレーテイアのひとつの方法だ。
言葉が難しくて分かりませんが、、
すごく噛み砕いて理解しようとすると、
自然の中にある法則性や規則性を見出すこと、
つまり技術とは、本来持つ力を見出して、説明可能な状態にすること
といえるでしょうか。
問題は技術の説明である「アレーテイア」と「用立て」の
見分け方が分からない事にあるようです。
人間が生活の配慮によって、生存の必要によって、
自然世界を使うようなことがあれば、
それ自体で「用立て」として批判の対象になるのでしょうか?
昔は自然世界にあるものを人間の側で使うとき、
儀礼や儀式というものがあったそうで、
中沢新一さんの神話をめぐる本などにはそうした例が色々と書いてたりします。
とすると、必要なのは
「自然と人間との通路を確保する思考」
だったりするのかな、と思います。
それはつまり、ごく簡単な言葉でいえば、
食事をいただくときの、
「いただきます」
という言葉に表れるものなんじゃないだろうかと。
技術がどのように新しく未来で展開できるのだろうかという想像は、
結局のところ、人間がどのような礼儀をもって
自然を「生命」として捉えることができるかに
かかっているのではないでしょうか。
あ、これ読まないと・・・