ゲームとして世界を確かめてやれ

ヒプノタイジング・マリア(著:リチャード・バック)より引き続き。

やれ体が痛いの惨めだの、やれどうせ無理だの、ぼくにはそんな暗示も催眠もみんな的はずれ。ほら、体が凝って痛くて仕方ないなんてことは全然ないね、むしろその逆さ。ぼくは今このままで完全な命の完全な表現なんだ。今朝は体が蛇みたいにしなやかに動く。痛みはゼロ、不快感ゼロ。健康状態は完璧、気力じゅうぶん、頭は冴えて集中力もある。休養もたっぷり取れたし、飛ぶ準備は万全だ。どんなもんだ!
彼はある部分では、こうやって催眠解除をゲームとして冗談半分にやっているのだが、そんなゲームが本当に効果のあるものか、確かめてやれという気持ちもあった。(P173)

この時空世界に現れては消えるまやかしたち、ぼくが鵜呑みにしてきた暗示と間違った方向づけ。決めつけや思い込み。手を変え品を変えて登場する理論や法律。自分でない誰かをのべつ演じるわれら二足歩行の人類と、人類が依って立つ大地。宇宙に目を転じてみよう。この冷え固まった地面に覆われ、内部はどろどろのマグマで出来た球体は、十個ほどある惑星の一つだ。惑星たちが永久に描き続ける円の中心、太陽では、絶え間ない核爆発が起きている。それとて、銀河が作る小さな渦巻き花火の閃光にすぎない。その向こうに果て知れず広がっている漆黒の宇宙とそれを彩る巨大な花火の饗宴・・・・・・。壮大で美しいイメージだが、ことごとく、ぼくらを覆う幻の姿にすぎない。その仮面の下には命が、生まれも死にもしない無限にして永遠の原理が厳存する。ぼくの本質は、いつか消えてしまう火と共にあるのではない。命と共にあるのだ。

われわれ地球の人間は、ここが故郷だという他愛のない了解の上に暮らし、古代異星人たちは自分たちがどこかの星から飛んできた高度の文明人だと信じ、魂(スピリット)の存在たちは来世という信仰や遥かなる異次元という超越的幻想によって生きる。みんなそのような信念を旗印に掲げて遊んでいるのだ。それはともかく、消えることのない本質が散らす火花 ― 命の煌きこそが、われわれ一人一人にほかならない。(P182-183)

自分に筋書きを変える力があるのを忘れたら、それはたちまちクリエイティブな催眠世界でなくなり、その人はつまらない催眠状態をだらだらと生きる羽目になる。
「クリエイティブな催眠世界ってのは、とてもすてきだ」
ぼくらには実体として体があるのではなく、体というものを常に仮構し続けているんだ。ぼくらは自分にくりかえし示唆し続けるとおりの状態になりゆく。病気であるとか健康であるとか、幸せでいるか絶望するか、分別のない人間なのか素晴らしい人間なのかってのも同じなりゆきだ。(P185)

さて、こうした言葉から僕たちは何を得ることができるのでしょうか?現実は自分が自由に筋書きを作ることができる、と本気で考えて行動するのか?そうしないのか?

どちらでも。

 

ただ生きていることには間違いはなく、「気づいたら生きている」というこの世界のゲームが始まっているところへ、突き出されたのですから、「ルール」なんてどう捉えても間違いはないのでしょう。であれば「催眠解除をゲームとして冗談半分にやっているのだが、そんなゲームが本当に効果のあるものか、確かめてやれという気持ち」ぐらいの気持ちで、「どうありたいか」を自分の胸の内から世界を見ていったほうが気持ちよさそうですね。