レヴィ=ストロースの「真正さの水準」メモ

読書メモ:レヴィ=ストロース入門より(3)

引き続き「レヴィ=ストロース入門」(著:小田亮 ちくま新書)からのメモになります。

 

構造について、ヤーコブソンの言語学からの構造、ではなく、

ポストモダンの共同体批判について

および真正さの水準について

興味を惹かれたのでメモしておきます。

 

近代が創りだした「閉じられた共同体」という幻想を共同体主義者と共有しながら、共同体批判―すなわち、閉じられた「共同体」から外部との交通に開かれた「社会」への解放の物語―(P24)

その共同体批判は、前近代の共同体のロマン化を批判したり、あるいは国民国家という共同体の閉鎖性に反対するために、あらゆる共同体を開放していく資本主義の「交通(レヴィ=ストロースにいわせれば「非真正な交通」)」を評価する。しかし、そのような批判は・・・当の資本主義によって創りだされた幻想である・・・

共同体からの解放という物語は、近代社会が自らを開かれた進歩する社会とみなすことを可能とすると同時に、共同体に縛られている停滞している非西洋の諸社会や西洋の内部の田舎や下層階級を文明化する使命があるという観念を作り、植民地支配を正当化するはたらきをしてきた。(P25)

自由主義経済やグローバリゼーションも

こうした解放の物語が下地になっているように感じますね。

共同体を「閉鎖的で均質で抑圧的なもの(p25)」と単純化して捉えるのは、

それがその共同体の本質を捉え損なっているからではなく、

「共同体の雑種性や複数性を解放や進歩や発展(=開発)の名のもとに

均してしまうことを正当化する(P25-26)」からだという指摘も納得です。

 

そして「真正さ」についての箇所です。

社会の二つの存在様式の区別・・・その区別とは、<顔>のみえる関係からなる小規模な真正な(本物の)社会の様式と、近代社会になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な「非真正な(まがおいものの)」社会様式との区別である。(P26-27)

ここでいあわれている真正さの水準とは、法や貨幣やメディアに媒介された間接的で一元的なコミュニケーションと、身体的な相互性を含む<顔>のみえる関係における多元的なコミュニケーションの質の違いを指している(P27-28)

しかしこの<真正さ>は隣近所での付き合いや会って話すことを言っているのではなく、

社会を想像する、その想像の仕方によって違いがあるとあります。

この区別は社会の規模からくるというより、社会の想像の仕方からくるといったほうがよい。(P28)

非真正な想像の仕方では、他者との社会関係は、<顔>のみえる人と人の<あいだ>で作られる流動的な関係ではなく、国民国家や民族集団といった固定された全体に媒介された間接的なものとなり、アイデンティティも人と人の<あいだ>で作られる多様で複数的なものではなく、<日本人>というネイションの全体に自分が結び付けられて、自分が日本人というアイデンティティをもち、そこから他者との関係が意味づけられるというように、人と人の<あいだ>を抜きにして、全体と個人がいきなり結び付けられることによって創られるものとなっている。(P28)

しかしそのような想像の仕方やアイデンティティの創られ方は、ネイションという「想像の共同体」に独特の想像の仕方(P29)

つまり、真正な伝統や民族文化にもとづくとされることの多い国民性や民族性といったアイデンティティは、むしろ<顔>のみえる関係や身体的な相互性を拾象した空虚な均質化にもとづく非真正なものであり、文化の真正さは、均質ではないが<顔>のみえる相互性にもとづく小規模な社会生活の携帯にこそあるというわけである。(P30)

都市や団地などの問題にも繋がりますし、

現代のSNSやネット上でのコミュニケーションによって

社会や人間関係の想像に仕方にもまた大きく変化が起きているでしょう。

まだまだ考える余地の多い言葉だと思えます。

 

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