瞑想についての話から想うこと

今自分にとって、最も面白いと感じられる書物となっている

『ニュー・アース』の著者(エックハルト・トール)の映像を

ネットで見た時に知ったサイトがあります。

VAST STILLNESS

 

ここの記事の中に、今日とても感銘を受けたものがありました。

ルパート・スパイラ~「瞑想」がエゴの「迷走」にならないように

 

この記事では、通常使われている「瞑想」という言葉は

手段としての方法になっているとして、それとは違う定義をしています。

 

「瞑想」することが、

特定の目的のための手段となっている時の状態とは、

このように説明しています。

しかし私たちは物質的なものを探した時とまったく同じ態度で「瞑想」に取り組み始めるのです。もの、人間関係などに求める態度と同じように「瞑想」という新しい方法で幸せを探求し始めようとするのです。ものでは達成できなかった幸せ、精妙なマインドの状態を「瞑想」によって達成しようとするのです。

当たり前のように思うものですが、

「悟り」というものが目的となっている修行なども同じ構図と言えますね。

それではこれではない「瞑想」とは何なのか?

「瞑想」をこのように再定義しています。

・瞑想=私たちの本質そのもの、ただ存在すること、ありのままの自分であること
・意識的に「気付きとしての自分であること」
・自分とは常に今ここにある、何にも動じない光の気づきであると知ること
・その状態に留まること

そしてそれ自体は、僕たちの意識そのものである、と。

皮肉にも、これは世界で最も簡単なことなのです。呼吸するよりも簡単なことなのです。マインドがある状態になる必要もないのです。あなたが素晴らしく知的な人であっても、あるいは、まったく知性のない人であっても関係ありません。心がざわついていても、平穏であっても、困難な状況に置かれていても、問題のない状況であってもそんなことはちっとも関係ないのです。

なぜなら、どんな状況にあっても「気づき」としてのあなたは、いつだって存在しているからです。瞑想するとは、意識的に「ただ気づきとしての自分であること」です。

こうして今僕たちが、生きていると意識している気づき

まさにそれそのものが

「瞑想」であるということになります。

 

これ、大変すごいことだなぁと思うと同時に、

当たり前すぎて愉快な気分にもなりました。

 

だって、どのようなものに悩んだり考えていたりしていても、

それがどのようなものであったとしても

それを体験している自分という意識に気づいていること

それだけなのですから。

 

「今自分はこういう状態だ」ということに意識的であること、

もう一人の自分が「その状態」の自分を見ているようなこと

と言ってもいいかもしれません。

 

これは単純なようでいても、普通はその思考の中に入り込んでしまって、

その状態の自分を気づくことは案外難しいですし、

このブログを書いている今の自分はそうであると気付いているとしても

この状態を認識し続けることは大変難しいです。

何かに意識を振り向けて、その中に入り込むことが

あまりにも当たり前になっているために。

 

まぁ気づいた時に気づくようになるように、

気軽に構えていますが。