“どう無限性を有限性の器に盛るか”という構図

定常的な世界であっても

技術が継続・発展しつつ継承される社会について考えながら、以前読んだ

『人類が永遠に続くのではないとしたら』(著:加藤典洋)

を思い出しまして、その中で書かれている文章を再確認しています。

「必要は功利のカテゴリーである。つまり手段のカテゴリー」にすぎない。人を動かし、「必要」に意味を与えているのは、(略)「欲望」と「歓喜」のほうなのである。

(略)なぜ人は生きるかという問いが投げ込まれると、有限な地球をどう生き延びるかという問いは「矛盾の器」となる。なぜなら、それは『成長の限界』の警告する「有限性」という新しい要素と聖書が述べる「人はパンのみにて生くるにあらず」という古くからある要素を直接ふれあわせ、化学反応を引き起こさせることだからだ。人はパンだけで生きるのではない。幸福を求めて生きる。欲望と歓喜をもって生きる。そしてそれらの本質は無限というおとだ。でも同時に人はパンがなければ生きていけない。そしていまやパンは有限なるものとなった。パンの本質は、有限ということなのだ。

これが『成長の限界』が新しくもたらした私たちの未来の基本構図である。ここで地球の有限性と向きあっているのは、人間の「必要」ではない。そのもう一つ内奥に控える「欲望」である。ここにあるのはどう無限性を有限性の器に盛るかという、「矛盾」を含んだ要請なのである。

『人類が永遠に続くのではないとしたら』P78-79(著:加藤典洋)

 

技術的発展とここでの「欲望」は

“どう無限性を有限性の器に盛るか”という

同じ矛盾の構図をはらんでいるように思えます。

今はまだ技術的発展それ自体がどう無限性とつながるかは僕の中で不明ですが、

定常的な世界でこうした問題がどのように消化され

欲望がどう活き活きと未来の社会に存在できるかという点は、

技術的発展が定常的社会に根付いている姿ととても重なります。

 

またここででてくる『成長の限界』とは、

環境問題について最初に警告を鳴らしたレイチェル・カーソン「沈黙の春」に続いて

経済成長ばかりが進むことは地球全体への問題となることを提言した書物と言えます。

成長の限界 (wiki)http://ja.wikipedia.org/wiki/成長の限界

上の『人類が永遠に〜』では、以下のように書かれています。

こちらは、『沈黙の春』の延長上で、地球の環境、資源、人口爆発をささえる食糧の供給にはっきりとした限界があることをコンピュータによるシステム分析を駆使して示し、近代の第一原理である産業の成長がこのまま続けば早晩、限界に達し、人類は危機を迎えるだろう、したがって、どこかで考え方を変えなければならない、と説く。(P48)