意味のある言葉

暗いときには星が見える。
(ペルシアのことわざ)

 

本屋でちらりと『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』を開いて、

目に飛び込んできた言葉がこれでした。

ことわざのようなシンプルな箴言は、

言葉の力、美しさを再認識させてくれます。

 

そういえば今読んでいる本「街場の戦争論」の中に、戦後の言語について語られてる箇所がありました。

江藤淳が「言葉を拘束しているもの」と呼んだもの、それは戦後日本人が口にする言葉はすべて自動的に空語に変換されてしまうという事態そのもののことでした。(P68)

「意味のある言葉」と江藤淳が呼ぶのは、日本人の心身の古層に伏流する言葉、自分の存在の「根」の部分から滋養を汲み出して繁茂する言葉のことです。からだの中で息づいている言葉のことです。それを「存在の芯に結びついた言葉」、「思考が形をなす前の淵に澱むもの」、「沈黙の言語」と言い換えてもいい(『近代以前』文春学藝ライブラリー・二〇一三年/二九頁)。そのような言語的源泉から切り離されてしまうと人間はもう「意味のある言葉」を語れなくなる。「なぜなら、この『沈黙』とは結局、私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界 − 日本語がつくりあげたて来た文化の堆積につながる回路だからである。」(吉本隆明+江藤淳『文学と非文学の倫理』中央公論新社・二〇一一年/二九頁)(P69)

 

ここで話題となっている「日本人の心身の古層に伏流する言葉」という日本語は、どのようなものなのでしょうか。

僕たちは個人個人の思いを伝えたり表現したりする言葉が、自分の本音か建前かといった気持ちの距離に対してはまだ鋭敏な方ではありますが、

言葉そのもの、つまりこの今、まさに書き用いているこの『日本語』というものに対して、

いったいどうすれば『つくりあげたて来た文化の堆積につながる回路』として「意味のある言葉」を使うことができるのでしょう。

 

ことわざのような箴言は、そこで示されている言葉で示される精神とともに、

言語に古層に伏流する、現代の「言語的源泉から切り離され」る前の、

研ぎ澄まされたままの形のように、僕たちの心に響くのではないか、とも思いました。