思想のための自由空間?

昨日引用として書かれてあった「主流の価値観に対抗する思想のための自由空間」とは、たんに新しい視点、とか新しい価値観ということなんだろうか?
ここで言われている「自由空間」という言葉には、それだけでない意味が含まれているんじゃないかと思ったりもした。
それは「空間」という言葉から想像できるように、既成の価値観、主流の価値観というものを自由度の少ない閉ざされた部屋とすると、その周囲の壁を取り払い、自由に立ち回れる空間をつくることであるようだ。
それは新しい視点、新しい価値観というものも確かにそのような役割をもっていると思えるけど、「自由空間」という言葉にある「余白」がとてもおおきな意味をもつんじゃないだろうか。「余白」は他者を受け入れるスペースかな。コミュニケーションにも強く関わってくるようだ。
既成なり主流の価値観というものはそれなりの強度があるけど、他の人々から距離が離れやすく、ともすればその中でしか通用しないということもあったりする。そこに他の人々たちも共に参加し、集まってくることができるスペースを作ること、それこそが「思想のための自由空間」というものかもしれない。
では「新しい視点」にはそのようなスペースを作る力がないんだろうか?
「新しい視点」とは発見だ。驚きでもある。それ自体が強い力で吸引力を持つけど、その吸引力によって集まる「場」を想定していない。
でもこの場合どれだけの驚きを与えることができるか、にかかっているようだ。それが大きければ大きいほど「場」は自発的に広がっていくのだから。でもこれは強度だけにかかわっているから、どうも人々に対する優しさのような感覚が足りないように思ったりもするなあ。