https://www.youtube.com/watch?v=AQWpKeVOxj0

ナポリそのものとして

僕はあまり知らなかったのですが、

Pino Danieleというイタリアで有名なミュージシャンの方が

最近亡くなられたようです。

 

こちらのブログでは、その方を追悼する人たちが広場に集まって

彼の代表作の歌をみんなで合唱する動画が紹介されており、

観ててたいへん胸が熱くなってしまいました。

 

ありがとう、ピーノ。ありがとう、ナポリ。

 

ナポリという場所は、その歴史上なんども外国に支配され、いくつもの国が生まれては滅びてきたけれど、ナポリの太陽と海とその島々は決して変わることがない。それこそがナポリナポリとするものなのだ。けれども、そんな自然の風景だけがナポリナポリにしているわけではない。そこに生きてきた人々、芸術家たち、そしてその作品もまたナポリを形作るものなのだ。ナポリの太陽や海や火山や島々を、芸術家たちとその作品と並べて見せたジョヴァンニは、そこに永遠のナポリを見ているのである。

http://hgkmsn.hatenablog.com/entry/2015/01/08/151128

 

ここで言われる「ナポリ」は、内田樹さんが書籍やブログで言われる

「国破れて山河あり」という「国」そのものですね。

国破れて山河あり。
統治システムが瓦解しようと、経済恐慌が来ようと、通貨が暴落しようと、天変地異やパンデミックに襲われようと、「国破れて」も、山河さえ残っていれば、私たちは国を再興することができる。
私たちたちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。
私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。
日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。
日本語の語彙や音韻から、「当たり前のように定時に電車が来る」ことまで含めて、私たち日本人の身体のうちに内面化した文化資源と制度資本の全体を含めて私は「山河」と呼んでいる。
外形的なものが崩れ去っても、「山河」さえ残っていれば、国は生き延びることができる。

http://blog.tatsuru.com/2015/01/

 

また中沢新一さんがレヴィ=ストロースの言葉としてあげている

「どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失われるものがあるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生み出した芸術作品だけである。」

『縄文聖地巡礼』P50 中沢新一・坂本龍一

という言葉が思い起こされます。

 

動画の最後の「CIAO PINO」、

それは歴史や風土・文化の一つとして、

永遠として、生まれ変わったPino Daniele氏への挨拶のように感じました。

 

「やぁ」

と・・・

 

 

画像出典:https://www.youtube.com/watch?v=AQWpKeVOxj0