瞑想の話から大塩平八郎の言葉を思い出して

瞑想の話から大塩平八郎の言葉を思い出して

ある事柄を目的と手段としてそれぞれ分けて

時間によって分別し、始点と到達点として理解し行動するということは、

どんなものであれ僕たちが普段生活しているときに使われる

ごく一般的な意識だと思いますが、

一方先日の記事「瞑想についての話から想うこと」を書いてから

思い出したものがあります。

 

それは江戸末期の役人・学者であり、乱の名前として有名な大塩平八郎、

その人の書物「洗心洞箚記」の中に、

「なにかの為(ため)にすることであれば行うべきではない」

という意味の言葉です。

 

今もう手元にないのであいにくすぐに確認はできませんが、それは

行動というものを何がしかの手段として扱うのであれば行わないほうがよい、

つまり、目的のための手段として行動するな

という意味合いの言葉として記憶に残っています。

 

これは先日の瞑想が手段になっているという指摘を示す

しかし私たちは物質的なものを探した時とまったく同じ態度で「瞑想」に取り組み始めるのです。もの、人間関係などに求める態度と同じように「瞑想」という新しい方法で幸せを探求し始めようとするのです。ものでは達成できなかった幸せ、精妙なマインドの状態を「瞑想」によって達成しようとするのです。

という言葉と同じ思考態度、

つまり目的を叶えるための手段としての行動について示しているように思います。

 

日本陽明学の主な人物を紹介した「日本陽明学 奇跡の系譜」という本の中に

大塩平八郎に関する記述の中には以下のような文があります。

大塩は、他人の苦難を救うという善行においても、そこに善を行おうという、偽善の利心が入れば、救わない方がいいとまで言い切っている。(略)

人の厄難(やくなん)(災難)を救う時、吾が霊淵(心)の一波(私利私欲)の動くや否やを験(けん)せよ。一波わずかに動けば、則(すなわ)ち既に情欲の在る有り。天の体に非らざなり。天の体に非ざれば、則ち救わざるの愈(まさ)れりと為(な)すに如(し)かず。

『陽明学 奇跡の系譜』P153 著:大橋健二

この、「吾が霊淵(心)の一波(私利私欲)の動くや否やを験(けん)せよ。」という言葉は、

対象は私利私欲というものに限られているとはいえ、

自分がどう感じ意識しているかを観察し、知ることが大切と言えます。

 

それは、以下のスピリチュアルに関する文章と

同じ姿勢を示すのではないでしょうか。

なにかを認識するとすぐに、幻の自己であるエゴがそれに名前をつけてラベルを貼り、解釈し、何かと比較し、好悪や善悪を決める。この人たちは思考の形に、モノの意識に閉じ込められている。

この無意識の強迫的なラベル貼りがやまない限り、少なくともその行為に気がついて観察できるようにならない限り、スピリチュアルな目覚めはない。この休みないラベル貼りによって、エゴは観察されない心としての場所を維持している。ラベル貼りをやめるか、その行為に気づけば、内なる空間ができ、もう心に完全に占領されることはなくなる。

『ニュー・アース』P258 著:エックハルト・トール

大塩平八郎は私利私欲というものに焦点を当てており、

エックハルト・トールは、自らが無意識に行うラベル貼りとしての認識行動への気づき

に焦点があたっているという違いはありますが、

僕にはそれはそれぞれが生きた時代による影響の違いと思われるのです。

 

 

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