読書メモ:レヴィ=ストロース入門より

レヴィ=ストロース入門」を読んでいます。

未来の社会を考える時のもととなる、共同体のような集団のあり方について、

とても示唆に富む表現が「おわりに」の章にありましたので、まずはそこからメモします。

 

まずレヴィ=ストロースの前提として大切な指摘点。

「未開」という社会を区別する特権意識のようなものに気づくことですね。

レヴィ=ストロースが標的にしていたのは、西欧近代社会が自分たちを「歴史ある人類」とするために、「未開」民族を歴史の主体としての人間から排除し、「発育不全で畸形」(サルトルのことば)の人類とみなすような他者認識であった。その認識は、「未開」民族が人間としての存在を獲得するかどうかは、植民地化されることによって、彼ら歴史なき人類が「歴史ある人類 [西欧人] の歴史を自己のうちに取り込み始めるとか、もしくは民族学そのもののおかげで、歴史ある人類が、意味を欠いていた歴史なき人類に意味の祝福を与える、ということによってきまるとする」(『野生の思考』)ものであった。P220

 

私たちの社会には、必然的に「歴史」が存在すると考えており、

「歴史に学ぶ」という言葉が示すように歴史とは

人間の社会が、今の状況や未来を読み取ろうとする動きとともに

必然的な要素だと思っていましたが、

それは西欧近代による歴史意識であるという指摘とともに、

歴史によって作られるアイデンティティ(同一性)を避けてきた社会

というのもまた存在するというのは、新しく感じます。

レヴィ=ストロースは、『野生の思考』のなかで、現実に起こった個々の出来事の独自性を表すような歴史を「純粋歴史」と呼んでいる。つまり、レヴィ=ストロースが敬意を払う歴史とは、出来事の独自性―何によっても置き換えることのできないという意味で、出来事の<顔>と呼んでもよい―を表している歴史なのである。・・・
それに対して、西欧近代に生まれた特殊な歴史は、異質な出来事からなる不連続な歴史を、年代という特殊なコードによる連続性を用いて単一の全体にまとめあげたものであり、「日本国民」の発展の歴史といった連続性は、年代という特殊なコードを用いなければ創ることができない。年代のコードにようるマクロな歴史は、ネイションや、階級(階級闘争史観)やジェンダー(女性の歴史)やエスニック集団といった、近代の非真正な社会のあり方ができてはじめて創られうる歴史であり、構造主義が避けるのは、そのようなマクロな連続性によって主体を確立する歴史意識である。P219

レヴィ=ストロースによれば、「未開」社会の多くは、歴史的変化や偶然的な変動を発展の原動力として取り込むことをせずに、歴史的変化や偶然的な変動を無化しようとする社会だという。・・・そのような社会を、時計などの工学的機械のように始めの状態をたもとうとする「冷たい社会」と名付け、西欧などのように、歴史的変化や偶然的な変動を社会じたいの発展の原動力とするような社会を、蒸気機関のような熱力学的機械にたとえて「熱い社会」と呼んで区別した。・・・「冷たい社会」に歴史がないといっているのではない。そこにも、戦争や交易や移住や疫病があり、つねに変動はあった。ただ、そのような社会は、出来事を受動的にやりすごし、出来事の<顔>を記憶として構造に吸収することで、歴史を無くそうとしている社会なのだというのである。「未開」社会は、「まだ歴史がない社会」ではなく、歴史ある社会が経てきた歴史以前の姿なのでもない。それは歴史を原動力とする社会とは異なるタイプの社会なのだというのである。(P225-226)

 

 

近代社会が植民地化していく過程で起こった、国家への抵抗運動や

グローバリゼーションへの抵抗によって作られるアイデンティティではなく、

「真正な社会」という、<顔>のある関係として人と人を結ぶあり方において

文化・生活レベルの現場での臨機応変な対応や混淆、

「抵抗や進歩といった意味の祝福を与えることは出来ない(P225)」ブリコラージュとしての

野生の思考のあり方が大切になると思えます。

中間性の思考

植民地化され、すでに国家に包摂されたサバルタンによる抵抗、近代の歴史意識を受容した意識的・主体的な抵抗なのではなく、奪われた同一性(アイデンティティ)を回復する抵抗なのでもない。また、それは、国家や世界システムに包摂された結果、みいだされ創りだされた、閉じられた共同体のイメージやローカリティに閉じこもって抵抗することでもない。それは、真正な社会様態に依拠した抵抗ではあるが、すでに述べたように、真正な社会様態とは、すでに顔見知りの人びとからなる閉じられたローカリティとは異なる。それは、はじめて出会う人とのあいだの関係を<顔>のある関係として結ぶことであり、これからも出会うことのない人たちや死者との関係も<顔>のある関係として想像することを意味している。つまり、マスメディアや国家に媒介された非真正な社会様態への抵抗は、前近代にあったものとして創り出された「小さな共同体」に閉じこもることとは違っている。P230-231

国家に包摂される以前の「未開」社会が、同一性の原理としての国家へと向かうことを、二項対立の反復によって拒否していたやり方も、植民地化され、すでに国家に包摂された現代のポスト植民地の諸社会が、外から押し付けられた同一性(アイデンティティ)を、複数のコードを用いて、他のさまざまな記号とつなぐことによって二項対立の重なりへの換骨奪胎するやり方も、ともに、真正な社会状態におけるブリコラージュによる野生の思考であることに変わりはない。P231-232

未来社会のなかの基本となるのは、昔の「村」のようなものでもなく

もちろん「都市」という様態もまた違いますし、

「共同体」という閉じられたユートピア的なニュアンスのものでもないとは思っているのですが、

(ある程度外に開かれて外部と交通がありながらも、きちんと閉じられている世界

その仕組は文化としてあるのか、風習や労働として、または祭り的な様態を通じてなどあるのか・・・)

という意味があるのかよくわからない、なんとも不透明なままなのですが、

こうしたレヴィ=ストロースの話から、

「熱い社会」での特権意識的な歴史意識から一歩引いた、

「冷たい社会」との中間のようなあり方ってどのようなものだろうか、と思います。

 

 

そしてもう一つ、

レヴィ=ストロースの「私」という存在にかんするこの言葉は、

ある意味とても東洋的というか、

前に読んでとても印象深いノンデュアリティ(非二元論)の話などにも

とても近しい考え方のように感じます。

「私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。私たち各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです」(『神話と意味』)P235-236