機能不全家族と機能する家族から未来を思う
アダルト・チルドレンと癒し(著:西尾和美 学陽書房)を読みました。
僕が気になったのは「機能不全家族」というキーワード。
この「機能不全家族」というキーワードから、
どのような家族・家庭が人間の成長にとって好ましいのかが見えてきます。
それは未来の世界を想像するときに、
どのような境遇・環境に未来の子どもたちがあるか、ということを
より少しでも理想に近しい姿として描けるためには、とても大切な要素だと思っています。
機能不全家族とは、この本では以下のように書かれています。
子どもの心に深い傷を与え、アダルト・チルドレンを生み出してしまうような家族を、機能不全家族と呼びます。機能不全家族とは、メンバーの安全が守られず、適切な保護が与えられず、一人一人の人格が尊重されない家族です。(P26)
つまりそこでは以下のような要素を持つ家族とあります。
- 性的虐待、身体的虐待
- 精神性な虐待、言葉での虐待
- 仲が悪く、怒りの爆発する家族
- 冷たくて愛情がない、ふれあいのない家族
- 親の期待が大きすぎる家族
- 親からのコントロールや抑圧がある家族
- 過度に子どもを甘やかし、溺愛する家族
- 他人の目を気にして表面的にだけよく振る舞う家族
- いつも親が不在な家族
これら以外にも以下のような関係の家族も該当するようです。
・あまりにも秘密がありすぎる家族
家のなかの誰にも言ってはいけないこと、家の外へは出してはいけないこと、親に聞いても答えてもらえない家のなかの秘密など、さまざまな秘密のある家族(p48)
・親と子どもの関係が逆転している家族
親としての力がなく、子どもに親の役割を追わせてしまったり、子どもと同じレベルで競争したり、嫉妬心を抱いたりする場合(p50)
・親になんらかのアディクション(依存症)がある家族
こういう家族では、一方の親が共依存者(コ・ディペンデント)であったり、子どもが共依存になったりします。共依存というのは自分のことより他人の世話に夢中になり、他人がとるべき責任を自分がとってしまい、他人をコントロールしようとする行動を言います。(P54)
性的虐待は言わずもがなでもありますが、
他の要素に関しては、程度の差こそあれ、
現代社会においてもまだ
ちょっとした程度ならどこかで「当たり前」とされているような
「どこにでもある家族」の姿の一面でもあるような気もします。
または「虐待」という言葉の定義には当てはまらないとして、
軽い程度であればコミュニケーションの一つとして収まっているかもしれません。
でも程度の問題として
個々人の裁量や経験、判断に委ねて済ませていいのでしょうか?
逆に徹底的にこうした要素を一切排除することをすべきでしょうか?
どちらか一方に針を振るのは危険と感じます。
そこで今度は理想として考えられる
「機能する家族」とはどのようなものかを見ていきたいと思います。
以下のような説明があります。
機能する家族とは、安全さと愛情と保護を提供し、子どもをあるがままに受け入れ、各自の個性や気質が認められ、意見や感情、思考の表現がうながされる家族です。それぞれのメンバーの人格を尊重し、思いやりをもってコミュニケーションができる家族です。誰にもわかる適切なルールがあって、しかしそれは硬直したものではなく、メンバーの発達段階に合わせ、柔軟に変化するものでなければなりません。(P188)
ここでの大切な要素をまとめると、
子供にとって…
- 子どもの安全と愛情と保護が提供できる
- 子どもをあるがままに受け入れられる
(各自の個性や気質が認められ、意見や感情、思考の表現がうながされる)
家族全員にとって…
- 家族のメンバー全員の人格を尊重する
- 双方が相手に思いやりをもってコミュニケーションができる
- 各メンバー間の発達段階・状況に合わせて柔軟に対応できる適切なルールが存在する
このような要素を満たしている家族・家庭像。
そこから逆算して、現状の問題点を試みるほうがよいのでは、と感じます。
こう見ていくと
家族は社会の縮図という言葉の大切さがわかります。
そして人が自分自身と他者に図る
コミュニケーションそのもののあり方へとも強く結びついてゆくはずです。
ではこうした関係を社会そして世界まで引き伸ばすことを想像するとき、
そのような未来世界の思想的、社会的な基盤はどのようなものと考えられるでしょう?
疑問は尽きません。