建築と自然の関係について
建築における未来の話として、
『建築の大転換』著:伊東豊雄 中沢新一 より
建築と自然の関係や今後の建築のあり方など、
未来のヒントに思えそうな箇所を引用していきます。
第一章 地域の公共性の大転換 (伊東豊雄)より
立派な防潮堤さえつくっておけば大丈夫だと思っていたという意味では、津波被害も人災です。防潮堤によって自然と人間の世界を隔てる境界をつくっておけば大丈夫だという考えそのものが根本的に間違っていたのではないでしょうか。
これからは、むしろ自然と人間の境界を解いて近づけることが、むしろ安全を高めることになっていくのではないかと思っています。
自然と人間を近づけることは、ローエネルギーでエコロジカルな建築、サスティブルな建築をつくるうえでも鍵になっていきます。(P29)
現代建築も、防潮堤と同じで、内と外を境界一つで隔てる近代主義的思想で考えられており、エコロジカルな建築といったところで、断熱性能を高めて人工環境である内部の消費エネルギーを減らすことだけを考えている場合がほとんどです。しかし、そうではなくて、人間のいる空間、つまり内部空間をもっと自然(外部)に近づけていかなければ、本質的な意味でのエネルギー削減にはならない、と私は考えています。(P30)
建築家は本来、建物に住む人とその周りの社会のネゴシエーターであり、そしてまた、自然と人間が生活する世界のネゴシエーターであるはずでした。それが弱化していたのが近代であり、被災地では、その機能を取り戻す試みをしているようにも思えます。(P35)
3.11をきっかけに、自然災害という面から建築が抱える問題について、
自然との関わり方の認識そのものが問題であった可能性が指摘されています。
建築家が自然と人とのネゴシエーターという位置づけは面白いですね。
続いて第二章、
人と自然の大転換 1「伊東豊雄の建築」を中沢新一と考える より
その自然との関係について
中沢 「東京のここにはどうしてこういう建物がつくられるのか?」「東京のこの地域はどうしてこういうつくりの街になっているのか?」(略)それは人間による設計の外側の自然が決めているんですね。自然の理法のようなものが、人間のつくりだすものの中に浸透しているんです。(P43)
中沢 自然のものは基本的に渦を巻いています。渦を巻くのには理由があるんですね。人間は、AというものがBに変化するのならば、BはAにまた変化できる、戻れるのだと考える、つまり交換が可能だと考えます。ところが自然のものというのは、変化したら戻ることができません。AがBになったら、もうAに戻ることはできないのです。AがBになったときと同じ法則を適用すると、全然違うものができてしまう。これが自然の法則です。…
自然のものは非線形で非可換を本質としています。つまり交換できない、という言い方もできます。量子力学の世界がそうです。…
ところが人間の脳がつくりだす思考という抽象構造は、渦巻きとは違います。これはある種の非線形を持っていて、A、B、Cと並んでいれば、並んでいるものの間に線形秩序が生まれてくる。論理は自然とは違うつくり方をするんです。
じゃあどうしてそんなことになるのかというと、「言葉」のせいじゃないでしょうか。人間の言葉というのは線形的につくられていて、心に起こっていること、感情とかいろいろなものが入り交じっている複雑な塊みたいなものを、私たちは言葉にして相手に伝えようとする。…(P67-68)
中沢 チベット人に言わせれば、大地の下には蛇や龍がいて、これがとぐろを巻いていつも螺旋運動をしているのですが、その上に線形思考で設計された建築物を建てると地下の蛇や龍が怒り出す、だからなだめるための儀礼をしなければいけない。…いっぱいお供物を捧げる、つまりギフトを行うんです。…つまり、本質的に異なる二つのもの―自然と建築―をどうやって調和させていくのか。設計が抑圧する自然に、アーキテクチュアはどう落とし前をつけるのか。建築が取り組まなければならないことがあるとすれば、最大の課題はこれじゃないかと僕は考えています。(P69)
中沢 (チベットの僧院の話より)建築物そのものは三角形や四角形という線形でできていますが、内部に渦を再現しようとする努力を行っているんです。支柱の周りは渦を巻く用につくられていますし、マンダラもそうした努力のひとつです。マンダラというのは、…自然の秩序と人間の思考がつくりだす秩序の間の調和を生みだそうとする試みなんでしょう。(P71)
中沢 (重農主義=フィジオクラシーと農業の話より)人間の社会はお金だったり法律だったり社会制度だったり、人間が頭の中で考えたことで動いているような気がしているけれども、そのおおもとは身体だし、この身体の中で人間の想像力も思考も欲望も起こってくるんですよ。じゃあこの身体は何でできているのかというと、フィシス(physis=ギリシャ語の「自然」)なんですね。人間の世界がフィシスにつながらないと、人間の世界は貧困化し滅びていく、という予感があると思うんです。(P82)
建築は予算や建築家や目的など頭の中だけによって作られるよりもさらに深く、
その「場所」によって無意識的に決められている、という感じは
たしかに「アースダイバー」を読むと、東京の中の、一つ一つの街の性格が
そうならざるを得ないような力によって形成されている感じを受けました。
自然が渦を巻く非線形であるって、確かにそうですね。
渦巻きは右回りか左回りいずれかですが、
自然法則がこの渦巻き状によって成り立っているという話を
どこかで聞いたことがあります。
そうした自然の上に、建築という人間のモノを置くとき、
ギフト(贈与)が必要になる・・・
これは未来において建築だけではなく、
自然と人工物との関わり全般において適用できそうな点です。
つまり、人が自然と関わる間には常に贈与関係が成立していることを、
コミュニティ、社会全体が仕組みとして備わっているというような姿に。
また贈与というと、アグロエコロジーの時に
「生産者へ、そしてさらに贈与する側へ」という話がありましたが、
人間は昔から贈与関係というあり方をうまく使っていたように思います。
自然から恵みとして恩恵を受けている贈与=食物を前提として、
贈与とお返しの精神が文化構造として備わっているのでしょうか。
都市生活者の自分にとっては、
贈与というものが安易に手段化されてしまっているようで、
「恩返し」や「お返し」という贈与関係を続けるために必要な何かが
失われてしまっているのではないか、と感じています。
重農主義については
以前、『貨幣の思想史 著:内山節』の中で紹介されていた
“農業こそがすべての富の源泉である”という
大変興味深い思想です。(この本もまたいずれ引用で紹介したい…)
明日以降も引き続き、『建築の大転換』からの引用を続けたいと思います。