チャロー・インディア

3・14 森美術館 チャロー・インディアを見る。最終日前日。
昨今インドの経済発展についての話題もたくさん出てくるような気がする。G7からG20という世界になり、インドはその中の一国として、今後多極化する世界に対して責任と存在感を持った国となるんだろうね。
ともあれ、ここで展示された企画展を見て、アーティストの役割とは、はたしてその国の実情を写し出す(別な、新たな)視線ということなのだろうか。明らかにこのインド展は、現在のインドの経済発展による活況が背景にあったうえで成り立っている。だけどそうした役割は、これまでジャーナリストが担ってきたことじゃないだろうか。と書くと、改めて一つ一つのジャンルや定義が崩れている、浸透しだしている、というのか、そこに案外こだわっている自分が見えてくる。 ある特定の国の現代性を主張なり、提示なりする企画というのは、現代○○展ということで以前からやっているスタイルだろうし、そう考えることもない。(NON STOPはまんまだったし)
しかし現代の中国なりインドなりが示す状況がグローバル化する世界状況をより鮮明に提示してくれるのかもしれない。その意味で進行されるグローバル化による影響を感じるにはいい機会かもしれない。
4つの企画エリアに区画し、それぞれの特色を与えて、現在のインドを俯瞰?体験?知覚?理解しようと試みている。だが鑑賞後、正直特に印象に残った要素が少ない。
一つ一つの作品について見る要素や内容もあるのだけど、そして思い返せば、現代化が押し寄せる波とそこに恩恵を受けられない人たちとの境界や、グローバル化の恩恵を受け入れていったことによる地域化した特殊性(いわばどのようにグローバル化の状況やそこからの情報が翻訳されインドという国や人々に取り込まれていったのか)という物語、風景、価値観があることに気づく。だがこの展開から、この特殊性がどのような世界性を示していくのかを追及することなく、ただその提示に終始している気がした。
グローバル化という状況は世界の状態そのものであって、私たちは選択の余地なく、その中に取り込まれている存在として、今を生きている、という話がグローカル研究のシンポジウムであったと記憶してるが、その状況下で展開される、翻訳、変換、置換、消化、拒否、尊敬、憧憬、敵対等々の作用の表情が、そこまでそこにあったローカルな文化や習慣、思考方法からのベクトルを経て、どのような姿となって出てくるかは面白いのだけど、それに関する歴史や背景を知る必要もあるし、なによりそうして出てきた展開によってすべてが覆い尽くされていると、逆にそうした状況そのものだけしか見えてこなくなって、そこに思うべき、というか、その先により魅力的な、空白な、発見したい何かがあるのに、そこまで行こうとしていない、もどかしさというのか、結局鑑賞後に残らなかったというのは、このもどかしさへ行きつく手がかりを提示していなかったためと言えるだろうか。
それはそうした特殊性自身がまたグローバルな状況の世界に取り組まれ、グローバル化する情報の一端としてこうして提示されていることそのものに、そして、それがこの日本とどのような関係を結びつけていけるのかというコミュニケーションの可能性の提示という問題に対して。
だがこれはひょっとしたら美術館という制度の問題なのかもしれないとも思った。