「街場の戦場論」のメモ

内田樹さん著作の「街場の戦場論」ですが、

読み終えてメモしたいところを抜粋します。その多くが本の前半部分(第一章〜第三章)でした。

 

まず、過去の出来事に“もしもを導入する”という手法で、

一九四四年以前に講和していた場合を想像してみた結果、

  • 主権国家として敗戦した
  • 大正生まれの多くの方々が生き残って戦後を迎えた

という可能性が浮上すると書かれています。

同時に「主権国家として敗戦できなかった」ことと、「大正生まれの多くの方々が戦死した」という巨大な喪失がこの戦争後期で生じたことが明確に見えてきます。

戦争責任についても自国内で追求・議論する余地が生まれていたかも、とも。

そもそも東京裁判自体がないですからね。

四四年以前に講和していれば、大日本帝国は主権国家として負けることができた。戦争に負けたという事実をまっすぐに受け止めることができた。(P47)

何より死んでしまった大正生まれ世代―彼らが徹底的に戦争責任を追求したと思います。(P47)

で、こうした喪失が何を示しているかというと、

敗北の検証が自力ではできないくらいに負けた。これが日本の問題だったと思います。(P48)

「敗戦の否認」というのは、「不愉快な現実から目を背ける」誰にでもみられる病的傾向というよりはむしろ「不愉快な現実を直視するだけの精神力も体力も残らないほど徹底的に負けた」という日本に固有の具体的事実に由来するのではないかと僕は思います。(P48)

この指摘はなるほど、と思いました。

つまり、戦後に「終戦」と言って敗戦からなんとなく遠ざけたような感じは、

意図的というよりはむしろ「そうせざるをえない」ぐらいの国力だったということです。

 

で、このことが結局戦後の空気を作っていき、

僕が「戦後レジーム」と呼ぶのは、一言にして言えば、主権のない国家が主権国家であるようにふるまっている事態そのもののことです。(P92-93)

ちなみにwikiでは戦後レジームとは以下のように書かれています。

戦後レジーム(せんごレジーム)とは戦後に出来上がった政府の体制や制度。現代の日本では主に、太平洋戦争での日本の降伏後、GHQ下で出来上がった日本国憲法を始めとする法令等を意味する言葉として使われている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/戦後レジーム

 

主権のない国が主権国家であるようにふるまう、ということを戦後続けることによって、

この国の中枢にはびこってしまった傾向 と考えられるものが、「忖度(そんたく)する」能力・・・

この国は久しく重要な政策については自己決定権を持っていません。重要な政策についてはアメリカの許可なしには何もできない。自前の国防戦略も外交戦略も持つことができない。起案しても、アメリカの同意がなければ政策を実現することができない。最終決定権を持てないのであれば、それについてあれこれ議論しても始まらない。それについて考えてもしかたがない。だったら、自前で考えて、それについてアメリカに可否の判断をいちいち仰ぐより、最初から「アメリカが絶対に文句を言いそうもない政策」だけを選択的に採用すれば 効率的ではないか、双眼が言える人が統治システムのあらゆる場所で要路を占めるようになりました。すべての政策が「アメリカが許可するかどうか」を基準にして議論される。自分たちとしてはこれがいいと思って熟議した後に差し戻されて、またやり直すくらいなら、最初から「アメリカが許可してくれそうなこと」を忖度して政策起案したほうが万事効率的である。そういう考え方を人々がするようになった。それが七十二年二世代にわたって続いている。(P93)

ここで書かれている傾向が、日本政治や官僚の中枢の動きというだけでなく、

マスコミの傾向や国民性にすら及んでしまったような気にもなってしまうのは自分だけでしょうか・・・

場の空気とか 他人の目を気にする国民性であることは戦前からあったでしょうが、

そこに効率性が入ってくることによって、

さらにその行動基準が姑息というか小さくなってしまったというか。