私もまた群衆であるということ
久しぶりに映画を観たいと思って、
渋谷のシアターイメージフォーラムへ行き、
セルゲイ・ロズニツァの「国葬」を観ました。
https://www.sunny-film.com/sergeiloznitsa
この映画は、1953年(今から67年前)のソヴィエト独裁者スターリンの
国葬の様子を撮影した映像を時間軸にそって構成された映画なのですが、
ここでテーマとしてあげられる「群衆」とは何なのだろうと、
思いつきながらメモを残そうと思います。
映像で延々と映し出される
スターリンの亡骸を見ようと列をなして訪れる人々、
広大なソヴィエト連邦の各地でこのニュースをじっと耳を傾ける人々、
追悼集会に集まる無数の人々の群れ、、、
その当時の人々の様子を
後世の人間として、まるで歴史の外部から、神の視点のように
それらの人々の様子を論じるのは
あまりにも安易で容易すぎる、気がするのです。
映画館からの帰り道、
渋谷に行き交う人の姿や、
各々が自分だけの世界に入り込む電車の中の人々、
それらと一体なにがどう違うのだろう、、、
いやいや、そもそもそうした比較をしたいわけではない、
そんなことじゃない。
国葬の映像で映し出された「群衆」と括られる人たちは、
その過去の「時代」というものと合わさり、
「当時の人々」「民衆」などなど
何かしらかの実体を想起させますし、
事実そうかもしれませんが、
そのように括られてしまうことによって、
失われている何かに気づきたい、
そういう想いがあったりするのです。
それはまさしく、
この映画が徹頭徹尾「時代」と「群衆」という
その視座で概観することを可能にしたからこそ、
気になってしまう感覚なのかもしれません。
それは、私たちもまた、
今の時代での群衆の一人であるということを
映画の映像を鏡のように映し出された姿として自覚することによって、
そこに抗いたい声を
自分の中で見出すことができるのかもしれないと
思いながら。