震災後の仮設住宅の発想から見える消費者としての人
『建築の大転換』第二章の「4 震災が建築につきつけた問題とは」では、
仮設住宅の建設における発想について語られている箇所があります。
伊東 仮設住宅がなんとも貧しい発想でつくられている。狭い住宅の中に洗濯機と電子レンジ、冷蔵庫と空調を与えておけば充分だろうというような発想、つまり、物を失った人に対して「また物を与えればいいんだろう」的な発想でつくられているんです。生活の温かみとか、心の豊かさを生み出そうにも生み出せそうにないような空間です。(P161)
こうした指摘によって分かることは、人間が人間としてではなく、
人が日用品という物を所有するか否かでしかその生活内容を考えられない、
つまりは「消費者」という経済活動の主体としてしか扱われないという発想です。
それは、先日の投稿で引用したグローバリズムの原則にある
以下の内容からの帰結でもあるでしょう。
欲望する個人が出発点である。
経済活動の外部性、すなわち自然のことは無視する。
生産は瞬間的に行われる。
伊東さんの震災後の活動として有名なのが「みんなの家」というプロジェクトですが、
『建築の大転換』の第一章にはこの「みんなの家」の役割について
以下のように語られています。
一つめは、被災して家を失った方々が集まってごはんを食べたりおしゃべりしながら心を慰め、癒やしあう小さな場所である、ということです。
二つめは「みんなでつくる家」ということです。近代以降、建築をつくる人間と住む人間の間に乖離ができてしまいましたが、本来は建てる人と住む人の間に距離はありませんでした。だから、みんなの家は住む人、使う人と最初からお話をしながら一体になって一緒につくろう、と考えたのです。かつての共同体では、家はみんなでつくって、できあがったら一緒にお祝いをしたものです。…
みんなの家の三つめの目的は、安らぎ楽しく過ごすための場所だけでなく、みんなで復興を考える拠点にもしていく、ということです。…つまり、「これからの俺たちの町をどうやってつくっていこうか?」ということを住民の人たちが話し合える場所です。(P23-24)
これらいずれもが、「消費者」として人間を見ていては
決して生まれない視点のものだと言えるでしょうし、
ローカルレベルの、顔の見える人同士のつながりからの発想によるものです。
これは3.11から半年後の記事になりますが、
「建築家、被災地で原点回帰 重鎮も若手も(2011年9月10日)」
こちらを読むと当時の、切迫感のようなヒリヒリとした危機感を
みなさん抱いているのが分かります。
またこの記事にある
全国の建築家による復興支援のためのネットワーク「アーキエイド」は、
3.11より4年目を迎えた節目にあたり、
以下のようなメッセージを公開しています。
アーキエイド、発災4周年のステートメント
その中の以下の点は、とても素晴らしいものだと思います。
アーキエイドには実践を通して得た震災知識が集積されています。これらの知識をレビューし次世代へ引き継ぐことは、アーキエイドが発足当時から掲げている重要なミッションの1つであり、「事前復興」として次期災害の減災に重要な役割を果たすものとなるでしょう。
こうしたことを調べている内に、
今、金沢21世紀美術館においてやっている展示を思い出しました!
会期は5月10日までなので、もうしばらくやってるようです。
要チェックですね。
画像出典:ジャパン・アーキテクツ 3.11以後の建築 展より
http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1721