遍在する、ということ
昨日、岡本太郎氏の養女、岡本敏子さんが亡くなったというニュースを知る。
生前あの人は、死んだ岡本太郎氏のことを「ほら、そこに」生きている、と言い、すでに亡くなった過去の人という言い方で太郎氏のことを言われるのを嫌がったという。おそらく敏子さんは太郎氏があらゆる場所に遍在しているのを嗅ぎつけていたのだろうか。
人の命が死後、どのようになるのか、僕は分からない。
ただ多くの場合、その人が生前住んでいた場所もしくはその人の墓地に、何かしらかの空気を感じることはある。
そこで青山の岡本太郎記念館という、生前太郎氏が住んでいた家を改築した美術館が思い浮かぶ。
よく耳にするのは「太郎さんがいた」「太郎さんに会えた」等、太郎氏の生きているなにかしらかの力を感じたという感想が多い。
しかし僕は1度だけ行っただけだけど、はっきり思ったのはそこは「形骸」だけという感覚だった。生きているとは言えない、まったくの別の何かだった。「ここに太郎氏はいない」と僕は強く感じた。特に居間にはその「形骸」の空気が強かったのを覚えている。唯一あの記念館で生命を感じたのは、大きな植物たちと造形作品が混じっている庭だった。気持ちよかったのはあそこだけだった。
人の命が死後「遍在する」ということを思えば、岡本敏子さんが太郎氏を見つけるように、その人にはその人にとって大切な人の姿が、人それぞれ見える、感じることができるのだろう。
そう思うと、この日常で無意識的に呼吸している、この世界の空気というものは、過去に亡くなった無数の人たちの息吹が今もなお色濃く残り漂う、そんな性質のものかもしれない。
数年前、幕末で活躍した長岡藩家老・河井継之助の墓地に、新潟の長岡まで行ったことがあった。彼の人の墓地はすごかった。
何もなかった。
山にある岩がそうであるように、墓石がそうして立っていた。
河井さんの生命はこの世で全て終え、まっさらになって溶けて消えていったんだろうか。