由佐美加子さんの「ビギナーのためのNVC」

2020年に参加したオンラインイベントの一つ、

8/27〜31に行われた NVC Global Festivalでは、

その終了後でも、

2021年1月1日まで、各セッションのアーカイブ動画が見れることができます。

 

講座動画からのスケッチ:由佐美加子さん

そこで僕は、由佐美加子さんの

「ビギナーのためのNVC:人間の進化の源としてのNVCの可能性とは?」

を改めて聞きながら常に内容を書き起こしていました。

 

このセッションには、実際の講座でも参加したのですが、

本当にこのNVCという世界の広さと深さを知ることができる

素晴らしい内容だと思います。

 

そこで紹介されるNVCの世界観、人間観は、

今自分が野口嘉則さんのMFCAで学んでいる

心の器を育むためのカウンセリング手法の世界とも

とても強い親和性を持っていると思えます。

 

このセッションについての説明です。

このセッションはNVCを学び始めたい、学び始めて間もないという初心者の方々向けに、NVCを学び、このNVCの世界を生きることで自分の人生や、人との関係性、さらに社会やこの世界において変化が起こりうるのか、その可能性についてお話します。NVCは単なるコミュニケーション手法ではなく、Tao(道)ともいえる生きる道でもあります。大いなる生命に繋がり直すことがテーマになっているこの時代に、今求められる人間の進化、という観点からNVCを捉えると、NVCという智慧の本質的な価値がきっと深く理解できると思います。

以下、動画内容から書き起こしたメモになります。

 

※内容は多少読みやすいように適宜更新・変更を加えています。また太字・下線は自分(ニッタ)の個人的判断によります。(更新:2021/2/22)

 

由佐さんにとってのNVC

命につながって生きる、人間のあり方。自分との繋がり方、他の人との繋がり方、自分と世界とどう繋がれるのか、有り様そのものを変換できる価値を持っている。

 

NVCの価値:

命につながって生きる人間の姿を通じて、社会や世界への可能性を示唆できること。

現代は、個別生存を主題とした生き方を求められている社会。しかし人間は個体として生きれる存在として生きていない。個体として、危険な世界を生き延びられるのかがテーマでもがかざるをざるを得ない社会。

個別生存最適化を前提としてた常識から、過去を包含して進化していけるのか、それがNVCの役割。

 

NVCは規定されるものではなく、シンプルな原理から多様な表現、見出していく道そのもの。

不自然から自然へファシリテートする動き、人間が自然な存在として、自然の中で生かされている状態へと導く役割。

  • 私が生きる個人に何が起こるのか
  • 私の人間関係に何が起こるのか
  • 私と私の人間関係からハブで広がる世界

 

個人

感情とニーズにつながっていくこと

自分と繋がれてないという感覚が社会に覆っている

「自分とつながる」という実態とは何か

・・・それはどういうこと?(NVCはこの説明に価値がある

 

根底にある理解

個人は「いのち」につながって生かされている存在。

<皮膚>を通じて外側の世界がある。

”「いのち」は何かを体験したがってるんだ”
”「いのち」が満たしたいことがあるんだ”

 

内側に起きた衝動によって、行為を外側に働きかけるという「循環」が人間の基本としてのあり方。

「いのちとしてこの外界で、体験したいこと、満たしたいことを、持って生きている」

  • 外側には体験が起きる
  • 選んだ行為から体験として、感情が湧くようになっている

この感情は何を意味しているの?
 →それによって満たされたかどうか

体験したかったことが、その行為によって満たされたときに、感情としてポジティブと呼んでいる、なにかしらの「満たされた」という感情が内側で起こるようになっている。

ネガティブとは、満たしたかったことを満たしきれなくて、満たされたがっている・求めている体験がまだ必要だと伝えてくれているもの。

 

NVCの世界観

命が体験したがっていること・衝動・突き動かしているもの
=これをNVCでは ニーズ と呼んでいる

この衝動の種類は、食欲や表現、つながり、など様々なものがある(ニーズリストとして109個ぐらいのリストが存在している

このニーズは、個々人でバラバラにはなっていない。

人種国籍年齢超えて、この「生命=いのち」が求めているものがあり、この世界で満たしたいものがあるということを、共有しているという世界観がNVCにある。

同じ体験をしていたとしても、どんな勘定でどんなニーズなのか、一人ひとりで全く違う。それが私達の固有の体験

仮に全く同じ行動をしていたとしても、どんなニーズからそれを行っているのか、どんなニーズがそれによって満たされているのか、どんな感情が湧くのかは、肉体ごとに違う。

いのちが満たしたいニーズを、何十億という肉体を通して、常にこのいのちを満たそうと、この(個人という)肉体を使ってる、体験している。(NVCの世界観)

命の衝動を、この3次元の世界で、思考と身体を使って、体験したがっていることを満たそうとしている。

すべては一つ、生命という世界が、私の肉体を通して、体験したがっていることを、パズルのピースの一つとして「担当」している、とも言い換えることができる。

ニーズが満たされると、違うニーズに移り変わる(一つのことに執着することはニーズの世界にはない)。

 

感情について

感情とは、内的世界の体験。
内側で起こっている内的世界を感じとろうと、意識を向けることで感じ取れる。そこで本当は何を求めているのかが分かるようになる。

ところが、私たちの多くは、感情が起こった原因を外側に向かってしまうか、感情を抑圧するか、しかできない。

ネガティブな感情を遠ざけようとする、抑圧することの暴力性。感情を感じた時に、自己批判によって遠ざけてしまうことは、あるがままを認めていくことの阻害要因となっている。

感情がどれだけ生きることにおいて、大切なものなのかを知ってほしい。

内側に何があるのか、自分たちがこの世界で何を求めているのか、ということが分からない限り、自分を生きることができない。

自分の命がどういうふうに、自分がこの世界で何を体験したがっているのかを、一番分かってあげないといけないのは、私自身。

私がそれを感じ取らなければ、それを世界の誰一人感じ取れる人はいない。

 

命を満たすことが、全体を満たすことになると、自分をもっと大切になれる。

自己犠牲が続いて満たされないものは、やがて怒り→攻撃性に変わってしまう。人に求めていく、歪みに発する。

NVCの世界観。講座中に表示された図をそのまま写しました。

 

NVCの個の世界で大事なこと

自分のニーズに対して、自分にしか感じられない感情という、チャネルを使って、私の命が私に今何を、この世界で体験させたいと思っているのか、

誰よりも世界で一番私が分かろうとする、ように生きる。
→これができると、「誰かのせいで・・・」というような文句を言うことがなくなる。

私の命を私が生きている、実感を持って生きることができるようになる。それがNVCの個人としての可能性。

外への適合、ではなく内にある私が起点。

源は私にあるものから表現をし、体験を受け入れ、感情を味わい、その感情によって自分を知り、その自己理解から次の体験を作り出す。

 

お金の欲

NVCはニーズを満たすための手段として捉えている。

お金があると、つながることができる、表現できる等々。

お金それ自体は目的にはならない。お金がどれだけあろうと、それだけで満たされた、ということにならない。

ニーズの場合は、体験の中に「これが満たされた」との思いによって終わることができる。

お金の場合はずっとお金を求め続けてしまう。お金を通さないと自分が認めてもらえないと思い込んでいると、

自分がこの社会で認められるには、とにかくお金をどんどん稼がないといけないんだと、手段に執着する。そうして手段に執着し続けていても、「これで自分が認められた」という日は、お金をどんだけ稼ぎ続けても、満たされる日はやってこない。

ニーズは、手段はまったく自由で無限。

自分を認めるということにおいて、お金を稼いで自分が認められるニーズを満たせると思うかもしれないが、それで満たせないとしたら、満たし方が違ってるか、何か違うやり方を自分で産まきゃいけないことだと捉える。

 

欲は「これじゃないと満たせない」という執着なので、無限に終わらない。「欲」は恐れから作られているため、恐ろしくて辞められなくなる、中毒化して、執着してしまう。

「満たされている」という感覚は「足るを知る」ということ

=ニーズで生きる。

ニーズはそこでが満たされると手段は終わり。際限なくやり続ける必要がない。手段は選ばなくなるので、こだわらなくなる。

満たさればどんなやり方でもいいんじゃないかな、となる。

 

「欲」を追求している時の中にもニーズはある。ただ目的がニーズを満たすことではなくて、その手段を維持することで、何か恐れがなくなるんじゃないか、ニーズが満たせるんじゃないかと思いこんでしまうことになっている。

「お金が欲しい」という欲においても、そのお金で何を満たしたいのか(安全が欲しいのか、承認が欲しいのか、生活を守る、つながりたい…等)千差万別。

ニーズの世界を知っていると、「じゃあ違うやり方で〜」と、手段にこだわることがなくなる。

中毒性を持つものには、そこにニーズがある(休息したい、休みたい〜等)けど、そこに考えが及ばない。手段にこだわっているために中毒化する。

ニーズは何なのかを、自分が感じている世界を通して、自分が常にそこにアクセスして自己理解をする、ということをいつも駆動できるようになると、「なぜかそうしたくなる」という自動行動に人生を支配されなくなる。

ニーズは頭では分からない。ひねり出せるけど、感じていることからしか、ニーズはアクセスできない。(考えていることは当てにならない)

 

(問い:ニーズ、感情、行動がぐるぐる回る存在である人間って何だろう?)

一人ではニーズを満たせないから。一つのパーツだけでは生きていけない。

もともと網目のような繋がりの中で生きているという、命の有り様、命の姿。人間関係だけでなく、すべての生命の働き、繋がり。

「命は繋がりの中で活かし合ってる」

NVCの世界の素晴らしさは、何をしてもいい。体験は何でもいい、何を体験するかよりも、その体験で自分は何を感じ取っているのかのほうが大事。

外側の世界は体験するフィールドとして3次元の肉体が持ってる、ものすごい貴重な鏡。

その鏡があるから、体験できるし、五感で感じれるものが存在しているから、感情感覚を通して自分の内側に繋がれる仕組みになってる。

 

(問い:感覚が鋭敏すぎて、感受性が強すぎて疲れてしまう)

世界が不自然だから。人間がほんとに自然な状態で生きてて、この世界は安心ね、ってなってたら、感受性持ちすぎてて大変とかになるわけない。

NVCは、人間が自然にあれるような姿になれる貴重な橋になれる。

NVCの土台は自己共感、自分の感情を感じて、自分のニーズにつながることから始まる。

 

人間関係について

自分に繋がれないまま、人とつながろうとすると、自分が何をこの世界に望んでいるのか分からないまま、そのニーズをアウトソースしていることになる。

ありのまま私を愛してほしい
=あるがままを受け入れてもらいたい

結局それは受け入れないまま、外に求め続けてしまう。それが顕著に現れるのが家族。

「私が受け入れられないものを人に受け入れてもらいたい」

この想いが投影されてしまうのが、パートナーであり恋愛。

自分が切り離しているものを、外側に投影し、それを無くそう、辞めさせようと、攻撃・批判が止められない状態になっている。エスカレートすることで人間同士の分離が進む。

自分のあるがままを受け入れられない、人に受け入れてもらえない、という怒り、感情が増幅してゆき、なぜこれが分かってもらえないのか、という憎悪にエスカレートしてゆく。

分かってくれない・ありのまま受け取ってもらえない人たちに、分からせようとしてその人たちを攻撃する。もしくは受け入れたくない自分を表している存在に対して、迫害し、追いやろうとする。

 

どんな行動行為(善悪問わず)であっても、人のニーズを満たしている。

そのニーズ自体は命の衝動であり美しい。ニーズを満たすための「行為」に対して、人間はとっ散らかっている。

痛みを感じてほしい。痛み=負の感情、自分自身に感じてほしい。

だけど痛すぎて感じれないから、頭でなんとかしようとする。感情の中にあったメッセージとしてのニーズは、受け取られないまま、分かられたいことを抱えたまま生きている。これが痛みを抱えたまま生きるということ。

このような人たちは常に自分の内側で痛みを抱えたままでいる。

感じてもらいたいという衝動、感じたら、この痛みが本当は何を求めていたのか分かってもらえるから。内側でそれができないので、その内側の痛みを他の人に分からせようとする。そのもっとも簡単な手段は、同じ痛みを味あわせること。そうして人を傷つける。

人を傷つけることは良くないことだと裁く。裁いても、自己嫌悪と自己憎悪が増幅するだけの社会が広がってゆく。

 

人間関係としてNVCのもつ可能性は、人間をニーズから理解しようとする努力ができること。

裁いて、善悪を判断し悪いものを正していくことでは、人間が本当に命へと繋がれないんじゃないの、と示唆している。

日々自分を裁く感覚ではなく、「どんなニーズがあってそうなったんだろう」と好奇心を向けることができるようになる。

裁いても人間と繋がれるわけではない。理解によって受け入れ繋がれる。

その理解の助けになるのが「ニーズを満たそうとしているから、行動しているんだ」という意識。

どんなニーズが満たされなくて、その行為に至ったのかを感じ取れた時、私たちは許す力を持っていると思う。

「ニーズ」っていう世界で、人は出会えたら、人間は必ず理解し合えて繋がれる、というフィールドがそこにある、というのが希望。

 

私たちは日々いろんな人に反応する。

反応を相手のせいだと指し向けるのではなく、今その反応をした私の感情につながって、私のニーズにつながることで、相手を攻撃する前のスペースが生まれる。

平和とは何か、に近づける可能性を示唆している。

 

NVCの効果

人間の感情が怖くなくなる。そこからニーズを考えられるため。

感情の扱い方がなっていない世代によって、感情は怖いものとされてしまっている。それを見て感情は、人を傷つけるものだということになる。

だがそれは使い方を間違っているだけ。

感情のエネルギーを外に向かって、相手に分からせることはやらなくていい。自分が分かればいいだけだから。だけど自分が分かるプロセスが、無知で分かってないから、外側や人にぶつけることで分からせようとするっていう衝動になっているだけ。

NVCが分かるとそのプロセスが分かるし、そこに繋がろうとする自分が分かるので、不快な感情を受け入れられるようになる。自分の不快な感情を受け入れるようになればなるほど、他の人の感情も受け入れられるようになる。

 

自分の感情・ニーズにまず繋がること

相手のニーズは何だろうか、と考える前に、まずは「自分のニーズ」に辿り着いていることが前提。

例えば、誰かが約束の時間に守らずに遅れてやって来たと。その時、相手のニーズは何だろうか、という考えるよりも、まず遅れてきた相手に対して抱いた自分の感情とニーズに繋がっているかどうか。自分のニーズに繋がれてない状態で、相手のニーズに思いを馳せるなんてことは無理。

遅れてきた相手に対して、イラッとしているのであれば、まず自分のその感情を知り、その感情は約束した場所を尊重して欲しいという自分のニーズに基づいている、ということを分かった上で、以下のように話すことができる。

「遅れてきたあなたに対して、私はこの場を尊重してほしい、という思いが満たされなかったように感じたから、イラッと感じたんだ。だけど、君が遅れたことっていうのは、きっと君にとって大事にしたいことがあって遅れたんだろうと思うんだけど、それについて私は知りたいと思っているんだけど、どうかな。」

ニーズで繋がっていると、理解し合おう、つながろうとする会話を作り出すことができる。

 

相手を攻めるだけでは、「何を大事にしているのか」が分からない。そのことを言葉として聞こえる=ニーズとして言葉で伝えることができる。

僕が大事にしていることはこういうことだ。君がこれをやると僕はこういう気持ちになる、そしてこういうことを自分は大事にしたいと思ってるんだけど、それは聞いてみてどうですか?

と繋がりを保ったまま会話を繋げていける。

 

企業向けのプログラムでのNVC

「聴く」という世界の文脈を変えられるように感じている。

会社の中で心理的安全性が失われて脅かされている現在にあって、NVCとして「聴く」という、評価しないで受け止めるという力を提供できる。

現場では、コミュニケーションとして聞きすぎると生産性が下がって停滞するが、聞かなければ分離してしまう。

 

問いの力

自分の感情に気づくには?まず「問の力」。「なにがあるの?」というセリフが体の内側に向く、向かせるための問い。なにを感じてる?ではなく、「なにがあるの?」と言ってあげる。

感情は人に分かってもらおうとする必要はない。自分が何かあるものに意識を向けることができる。一般的にはずっと外に向かったままのこのベクトルを内側に向けることを心がける。

内側と外側両方にベクトルが向いていると、自分の内側に何があるか自覚できているまま、外側で意識として表現できる。感じるためには、意識を向けるだけ。そこでは、(内側のものが)あることが分かる。

 

ニーズ≠ソリューション

ニーズをソリューションとして捉え始める罠。ニーズはソリューションではない。

私は何がほしいか分かったら、私はそれを解決できる気になれる、というふうに頭は使ってしまう。

一つひとつの体験の中に宿っているニーズを、丁寧に丁寧に味わっていくこと。

楽になろうと急がないこと。

人間ってすぐ楽になろうとニーズを使って一刻も早く行動してそれをどうしたらいいのかっていう話しに持っていきたいけども、

瞬間瞬間自分の命が体験しているものから、味わい尽くせるものから味わい尽くして、そこに居続けてほしい。

「命を味わってほしい」体験1個1個を尊んで、祝福して、それが命が体験したいことなんだねと、一緒にいてあげること。

不快な感情の素晴らしさ、怒りを感じ尽くすと情熱につながる、これだけは譲れない、そうだよね、と、自分の内側の生命力を感じられる。

 

(問い:味わい尽くせるための器はどうやって育む?)

ありのままでいいという信頼感だけ。

自分を操作したい、自分の体験をコントロールしたいという欲求。このコントロールを辞めて、自分はBeingな存在だけ、器なんだと捉えると、そこで起こっているだけであることが見えてくる。

そんな器であることを守っていればいい。その器の中で動くことをコントロールしたいとなってしまうけど、体験をコントロールしたい思いは、だいたい恐れから発する。

そのコントロールから離れてゆくと、アウト・オブ・コントロールの状態、つまり起こることが、ただ起こる。それを感じ取ることができる。寄り添う事ができる。

人間は言葉を貼り付けて客体化したものを、制御できる方に持っていきたい。それをやめる。

制御できる方向で進化してきたこともあるが、不自然も多く、疲れ切ってしまった。抵抗し、制御することで生き延びようと進化してきた、今までの人間のあり方は、これからは受け入れること、あるがままに抵抗せず、受け入れて感じ取った知恵から、行動するというフェーズに切り替わってゆく。NVCはこの移行を助ける働きになる。

諦めることではなく、感じることから繋がれる、本当の願っている願いに繋がって、そこから人間が生きた時に、この社会は大きく変わりうる。

 

NVCは終わりなき旅。自分の命と仲良くなれる。

自分の命から生きれる、理念や観念、アイデアじゃなく、実体験として体験できる道がある。

ほんとに自由な自己表現をさせてくれるようにNVCは作られている。シンプルで美しい原理だけをマーシャルが遺し、それを体験の中で咀嚼し、自分のものとしていくのか、ものすごい自由度がある。

宗教のように「これが正しい」はない。人間が本当はこうなってるんじゃないか、という仮説として、提示して遺していってくれたものを、どう自分たちが実験していくのか、まだまだ余地がある。そこに参画してくれる人が増えるといいなと思っている。