「自分」ということについて(昨日の話のつづき。)
書いていると、書き始めた頃に思っていたことと違うことがでてくる、ということがよくあります。
あれ、こんなつもりじゃなかったんだけど、(日頃もそうした考えなんて思うこともないんだけど)
なぜか書いている途中に次第に別の方向、多くは批判的なところへいってしまって、
自分でも首をかしげながら、でもその考えをなんとか着地させようとしてみたり。
どんな意見でも自分から出てきたものである以上、それはそれでいいんですが、
出てきたものに対してどう感じるかがとても大事で。
昨日の話で言えば、
「思っていることということを一致させる」ということについて、
最終的には
「逆に言えばそれほど「自分の心」の話しかしなくなっている…?という気も」
というところで終わりました。
ここのところが引っかかるんです。
それは「自分」というものに感心を持つことと、
江藤淳さんの言葉についての比較が、自分の中で混同したためじゃないかと。
混同した背景には、広く共通性のある場、より普遍性のある場へ思考を巡らすということへの憧憬が、
「自分」という場へ思考を巡らす深みを理解しきれない自分に勝とうとした、と思うのです。
僕は、服部みれいさんの基本姿勢、
「個人個人が自分を大切に幸せにすることで、社会や世界が豊かになる」
というものにとても共感しているんですが、
でありながらも、『自分』のことを考えることへの思考態度を、
狭いものとか考えているところがある、というとこをこの混同は示していると理解できそうです。
なぜ、「自分」が狭いと思えるのか?
それは「自分を洞察してこなかった」もしくは「洞察してもたいしたものはなかった/ない」
という自分へのアプローチが未熟だったために起こっていると言えそうです。
いわく、「自分」とは、楽したい、気持ちよくありたい、かっこよくありたい等の小欲程度を
「自分」の本性だと見誤っていることにあります。
そんなところを大切にして満足しても薄っぺらいばかりで、また不満が溢れ出すもの。
「自分を大切にして許し、認めて、幸せにする」という、
その「自分」とはそんなところにはありません。
では「自分」とは何なのか?
僕は、肉体という自然の産物(脳も含む)に宿った魂、だと思っています。
「自分」という言葉の定義、密度が違うことによって、混同することは多々ありますので、
よく使う言葉には、その言葉の持つ意味や定義付け、密度に敏感でありたいものです。
と、これも書きながら出てきたことでした。