宮崎駿監督。おつかれさまでした。

宮崎駿監督。おつかれさまでした。

宮崎駿の引退会見があった今日、2013年9月6日。
夜に「紅の豚」がTVで放送されていたので、改めてゆっくりと映画を見ていました。

やっぱり宮崎駿監督の映画には、それにしか感じられない「なにか」が、色濃くどの作品にもあるように感じられます。

 

以前、「風がなびいて肌に擦れるような感覚的な動きを描くことがアニメーターとしての官能だ」というようなことを宮崎駿さんが語っていた本を読んだ記憶があるんですが、まさしくそこで語られていた皮膚感覚として感じることのできるような動きの描写、それが言葉に出来ない「なにか」の正体かもと思いました。(その後、ここで語られていた言葉の内容がわかりましたので、以下引用します)

 

走る少年を描くときにですね、足の裏にくい込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、ぼくらにとっての官能性です。「虫眼とアニ眼」P117より

 

アニメというものは、なにはともあれ動きしかないわけですね。そこでのキャラクターや音楽、風景はあるけど、やっぱりアニメとしてはまず「人の動き」なんだということです。アニメーターが官能性を感じられるような動きを描くこと、それはアニメの中で息づく「自然のあり方」を表現するということなんですよね。

歩く姿、という単純な動きひとつにしても、思い巡らしていけば時代設定や年齢、性別、職業、服装、どんな気分なのか、体調はいいのかあ悪いのか、荷物を持った手が痛いのか、歩き疲れたのか、歩いているその場所はどんな土地なのか、どういう起伏があって整備されているのかいないのか、周りに人はいるのかどうか、日差しは強くないのか、雨や土埃がたっていないのか、どこから太陽が日を差し、どこから風が吹き上げ、どんな匂いがその場所にはあるのかなどなど…「動き」が表現されるための情報は実に複雑で多種多様です。

宮崎駿さんの作品で表現された自然は、計算されたり概念的・記号的な自然や風や土や光じゃなくて、体験として肉体を通して知っている自然の存在、人間というフィルターを通じて理解された自然のあり方だから、きっとすんなりと観る人たちの側へ通じてゆくんでしょうね。

 

また、宮崎駿監督のインタビューなどに、火の焚き方や紐やナイフの使い方といった、人が自然と長い長い共存の中で得た知恵について語っていることが多々見られます。そうした知恵は、人は自然と共にあることが動き=アニメであるっていう確信へと繋がっているんじゃないかと思ったりします。

ユーモラスでデフォルメされた動きや表情なんかもすごい魅力なんだけど、それもただのアイデア的な薄いものじゃなくて、こうした世界への観察眼があってこその描写なんでしょうね。

そんな、「動き」に徹底的にこだわって描いて映画を作ってきた宮崎駿監督、ほんとうにお疲れ様でした。

たくさんの素晴らしい映画をありがとうございました。

 

ちなみに僕はヤバイくらいの宮崎駿さんの映画ファンでして、最後にマイベストを発表しておきます(笑)

「未来少年コナン」と「天空の城ラピュタ」で決まりです!!!(どれか一つは無理…)

あとナウシカの原作本1〜7は恐ろしいくらいに壮大で深くて興味が尽きないし、映画のナウシカも好き。あと、カリオストロ、ハイジ、魔女の宅急便、トトロ…。