「人間」をどう捉えるのか、という分岐点
未来を想像する時に大きな分岐点となるのが、
主人公となる僕たち「人間」をどう捉えるのか
ということだと思います。
何によって「人間」を定義するか、その方法はいろいろありますよね。
自身の経験で、これまで出会った人間、
テレビや新聞、書籍、ネットなどに現れる人間、
映画や演劇などで描かれる架空の人間、
現代の様々な国に暮らす異文化の人間、
脳科学などで研究解明された意識や心で説明対象となる人間、
現代文明に属さない自分たちの習慣・文化を継承する少数民族の人間、
古代から近代・現代にいたって歴史上に存在した人間、
考古学や人類学などで研究される対象となる古代の人間・・・。
そうした己自身が得た情報の集積・濃淡によって
定義される「人間」がいる未来を考えるために
結果その内容は大きく異なります。
人間は欲深く、他人を批判し、戦いを好み
自分の欲望のために人を陥れ傷つけ続けるのか、
科学技術を人間の欲望に従属するために浪費されるものとするのか、
各人が抱える欲望は広く深くて、無限であって
形態や時代を超えてそれを満たす必要が社会にあるものなのか、
人間性や意識が変化するものを前提とするか、
そうした変化は起こりえないと除外してしまうか。
このような認識は未来をどう描くかだけではなく、
認識しているその人自身の現実世界を作り出す
要素そのものと言えるでしょう。
僕は人間の価値観や意識は変化するのものとして認識しているために、
現代文明で通用されている多くの価値観が転倒し、
スピリチュアルな系統で語られる意識の変化、認識の変化が起こることも
未来の要素として考えることができればと思っていますが、
同時に、「人間を、自分のイメージの都合の良いように改変すること」として
人間の意識の変化を考える危険性には敏感でありたいと思います。
人間の意識の変化は可能だし、起こるでしょうが、
決して焦ってはいけない、と思います。